(5)二種類の後悔


後悔とは、自分のしたことをふり返って、「あのとき、あんなことをしなければよかった」、あるいは「もっと違うようにすればよかった」と悔やむことですが、その「しなければ(しておけば)よかった」の意味に二つあるのではないでしょうか。一つは「あんなことをしなければ(しておけば)、もっといい結果になったのに」ということです。行為の選択を誤った結果として、悪い状況を招いてしまったという後悔で、これは要するに損得勘定としての後悔です。これが後悔の大半を占めるのではないかと思われますが、しかしもう一つ別の後悔があります。


それは損得勘定ではなく、「あゝ、あのときあんなことをしなければ(しておけば)よかった」と悔やむことです。「あんなことをした(しなかった)」結果がどうであろうと(たとえそのことでいい結果がもたらされたとしても)、そんなことには関係なく、「あんなことをした(しなかった)」こと自体を悔やむのです。これは慚愧(ざんぎ)としての後悔で、自分のしたことを恥じ入ることです。親鸞が先に「恥ずべし、傷むべし」と言っていたあの後悔です。


さて阿闍世の後悔はどちらでしょう。彼は「あんなことをしなければよかった」と悔いているのですが、それは「あんなことをしなければ、こんなにひどい結果にならなかったのに」と悔いているのでしょうか、それとも、その結果がどうなったかに関係なく、「あんなことをしてしまった」こと自体を悔いているのでしょうか。答えは明らかに後者です。熱が出たり瘡に苦しんだりといった悪い結果はありますが、それは彼の行為の結果というよりも、行為を悔いることによるのですから、結果について悔やんでいるのではありません。


先回りすることになりますが、大臣たちは「後悔なさいますな」と慰めるのに対して、医者の耆婆(ぎば)ひとりはこういいます、「善いかな善いかな、王罪をなすといへども、心に重悔(じゅうけ)を生じて慚愧を懐けり」と。そして慚愧あってはじめて救いに与れると説くのです。