(9)運命と宿業


阿闍世は蔵徳の慰問に、先の月称の時と同じく「かくのごときの果報、阿鼻獄にあり」と怖れ苦しんでいると答えますが、蔵徳は迦羅羅虫(かららちゅう)や騾馬(らま)を例に出して、父を害して国王となるのはそうなるような定めにあるのだと応じ、六師外道の二人目、マッカリ・ゴーサーラを紹介します。この人は運命論者で、すべては運命により決定されていて、自由意志というものはないという立場に立ちます。この立場からは、阿闍世が父を害して王となったのは、そのような運命にあったのであり、阿闍世の意志によるのではないということになり、したがって阿闍世に何の罪もないとなります。


さてここで考えておきたいのはこの運命論と宿業の思想の関係です。宿業と言いますのは、釈迦の縁起の思想を源としており、各自のなすことはこれまでの無数の縁(つながり)のなかで育まれたものであるとする考えです。『歎異抄』第13章の「わがこころのよくて殺さぬにはあらず」という親鸞の有名なことばは、人を殺さなくて済んでいるのは、わがこころがよいからではなく、幸いにしてその縁がないからだけのことであるということです。逆に、その縁があれば、恐ろしいことに人を千人でも殺してしまうということになります。すべては宿業により決定されているということですから、これは運命論と同じように見えます。


しかし運命論は責任を否定し、したがって罪を否定するのに対して、宿業論は責任を否定することはなく、したがって罪を否定することもありません。むしろ責任と罪を一身に負おうとします。この違いは、運命論は運命を自分とは関係なく、自分を外から操る力として捉えているのに対して、宿業論は宿業を自分とは関係がないどころか、自分そのものであるとして、宿業のすべてに責任があると捉えるというところにそのもとがあります。さて阿闍世は自分の罪の大きさに恐れおののいているのですから、この運命論に心を動かされるとは思えません。運命論は己の責任を外部から追及されたときに、それを否定するための武器としてつかわれる思想です。