(7)主宰者としての「わたし」


これまでの議論の流れをふり返っておきましょう。スタートは「生まれる意味」と「生きる意味」とは異なるのではないかという疑問でした。「生まれる」ことには自分の意思が入っていませんが、「生きる」ことは自分の意思ですから、「生まれた意味」と「生きる意味」を同じレベルで論じることはできないのではないかということです。「生まれてきた」ことが自分の意思ではないことは問題ないとしまして、さて「生きる」ことは自分の意思によるのかどうか、これには議論の余地がありそうです。そこで「生きる」とはどういうことかを考えてきました。


少なくとも生きようと思うから生きていることは確かなように思われます、生きようと思わなくなったら、早晩死ぬでしょうから。としますと、「生まれる」ことには「わたし」は介在していませんが(まず「生まれて」、そののちに「わたし」があらわれるのですから)、「生きる」ことには「わたし」が関係しているのは間違いなさそうです。生きようと思うのは「わたし」ですから。そこで次に問題となるのが「わたし」とは何かということです。


デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」と言うとき、何かを思うときには、そこに必ず「わたし」がいるという意味でしたら、これはもう疑いようもなく確かです。「わたし」がいることを疑った瞬間、そこには疑っている「わたし」がいますから。したがって、生きようと思うとき、そこに「わたし」が姿をあらわしていることは疑いようもありません。生きようと思うことは、いつも「わたし」を伴っているということです。これはしかし、まず「わたし」なる主体がいて、その「わたし」が生きることを采配しているということではありません。


「わたし」は、生きようと思うとき、そこに否応なく伴っている前提にすぎない、つまり「わたし」を仮説することなくしては生きようと思うことができないということと、まず「わたし」という主宰者がいて、その「わたし」が生きることを取り仕切っているということはまったく別だということです。