(6)罪悪深重・煩悩熾盛の凡夫


以上、真実の行信について見てきましたが、それに対して方便の行信があると言われます。それが何であるかはまったくふれられていませんが(これは『教行信証』の最後の巻「化身土巻」のテーマです)、ひと言しておきますと、真実の「行」・「信」はいずれも如来から与えられるもの(他力の行信)でしたが、それに対して方便の「行」・「信」はわれら自身がそれをなすことにより往生を得ようとするもの(自力の行信)です。「選択本願の行信」はわれらが自力でなすものではなく、如来から賜るもの、すなわち他力の行信であるということです。


さてその後に「その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり」と述べられますが、これまた一切説明はありませんので、ひと言ずつしておきましょう。


まず「機」すなわち本願名号の行信を賜るわれらについては、「老少・善悪のひとをえらばれ」(『歎異抄』第1章)ないこと、したがって「本願を信ぜんには、他の善も要にあらず」、「悪をもおそるべからず」(同)ということです。本願名号の行信を賜るには、それに相応しい身でなければならないと考える必要はまったくないというのです。なぜなら、われらはみな「わたしのいのち」を生きる以上、もとより罪悪深重・煩悩熾盛であり、そのようなわれらのために本願名号が用意されているからです。


次に「往生」について「難思議往生」とされるのは、罪悪深重・煩悩熾盛の「わたしのいのち」が、そのような「わたしのいのち」のままで摂取されること、これはもう難思議、すなわち「こころもおよばれず、ことばもたえたり」(『唯信鈔文意』)と言わなければならないからです。「善き人」は「善きところ」を得、「悪しき人と」は「悪しきところ」に堕ちるもので、またそうでなければ世のなか回らないと思うのが常であって、「悪しき人」が「悪しき人」のままで摂取されるというのは、これはもうわれらの思議をはるかに超えているというしかありません。