第4回 よこさまに超える
(1) 偈文1
「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」のあと、さらに信を得たのちの風光が次のように詠われます。
摂取心光常照護 已能雖破無明闇
貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天
譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇
摂取の心光つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天をおほへり。
たとへば日光の雲霧におほはるれども、雲霧のしたあきらかにして闇なきがごとし。
弥陀の目に見えない光は、常にわれらを照らし護っていてくださいます。その光に気づかせていただき、われらのこころの闇は晴れましたが、
だからと言って、貪りや愛欲、怒りや憎しみから解き放たれたわけではなく、いつも煩悩の雲や霧がかかり、真実の信心の空を覆っています。
しかし、それはちょうど日の光が雲や霧に覆われても、その下は明るく闇がないようなものです。
親鸞は『教行信証』「信巻」において、金剛の信心を得た人には「かならず現生に十種の益」があると述べ、その第六に「心光常護の益」を上げていますが、それがここで「摂取の心光つねに照護したまふ」と詠われています。
ときどき浄土真宗では現世利益は言わないとされることがありますが、とんでもありません。本願を信じ、念仏を申すことで、この世において大いなる利益があります。そのことを表すもっともよく知られたことばとしては、『歎異抄』第1章の頭にこうあります、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」と。この「すなはち」は、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」〈そのとき〉という意味であり、紛れもなく現世利益です。
この「すなはち」を考える上でもっとも大事なことは、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」こと〈によって〉摂取不捨の利益を得るのではないということです。そうではなく、「念仏申さんとおもひたつこころのおこる」ときには、〈もうすでに〉摂取不捨の利益を得ているのです。もし念仏を申すこと〈によって〉この世で何かの利益を得ようとしますと、その念仏は自力念仏であるとして退けられ、その利益も悪しき現世利益として否定されます。