(6)感じるということ


他力に生かされていることは他力によりはじめて知らされるということについて考えているところです。いや、他力に生かされていることは、知らされるというよりも感じさせられるというべきでしょう。源信の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつらずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」ということばを手がかりにしますと、源信は、大悲の摂取のなかにあることを「見る」ことはできないが、それはもう否応なく「感じられる」と言っています。この「見る」は「知る」と言いかえることができるでしょうから、われらは他力のはたらきをどれほど知ろうとしても知ることはできないが、そのはたらきをわが身の上に生き生きと感じることができるということです。


ここで「感じる」ということについて考えておきたいと思います。一般に何かを「感じる」とき、それはその「何か」のはたらきであり、「われら」の力ではないということについてです。


たとえばわれらが寒さを感じるとき、それをもたらしているのは寒さであってわれらではありません。寒さがないときに、どれほど寒さを感じようとしてもどうにもなりませんから。ここで反論が起こるかもしれません。感受性の勝れた人というように、何かを感じる能力がわれらにそなわっているのではないだろうか、とするならば何かを感じるのもわれらの力によるのではないのか、と。なるほど寒さを感じとる力がわれらに備わっていなければ、どんなに寒くても、寒さを感じることはないでしょう。しかしそのことは寒さの感受がわれら「に」起こるということを意味するだけであり、決してわれら「が」寒さの感受を起こすことができるということにはなりません。やはり寒さの感受は寒さが起こすと言わなければなりません。


他力(「ほとけのいのち」)に生かされていると感じることも、それは他力によるのであり、われらの力によるのではありません。他力の感受はわれら「に」起こりますが、われら「が」起こすことはできません。