(5)本願の大智海に開入すれば


善導讃の後半5句です。



開入本願大智海 行者正受金剛心


慶喜一念相応後 与韋提等獲三忍


即証法性之常楽


本願の大智海に開入すれば、行者まさしく金剛心を受けしめ、


慶喜の一念相応して後、韋提と等しく三忍を獲、


すなわち法性の常楽を証せしむといへり。


善導大師はこう言われます、「本願の智慧の海に入ることができましたら、金剛のように堅い信心を授かり、


また喜びがこころに湧き上がります。そして韋提希夫人と同じく、喜忍・悟忍・信忍の三忍を得ることができ、必ずや涅槃に至ることができるのです」と。



注1 金剛すなわちダイヤモンドのように固い信心。


注2 喜忍すなわち信心を喜ぶこと、悟忍すなわち仏智を悟ること、信忍すなわち信心の定まること。無生法忍のこと。


注3 法性とはあらゆる存在の真実なありよう。真如のこと。法性の常楽とは涅槃のこと。


第1句の「本願の大智海に開入すれば」とは、如来からやってきた光明と名号を信受して、もうすでに本願の大智海のなかに入っていることに気づいたということです。何度も言いますように、弥陀の本願(ねがい)は、光明(ひかり)と名号(こえ)としてわれらに届けられます。ですから光明と名号を信受するということは、本願のなかに包み込まれていることに気づくことに他なりません。これが本願の信心です。念のためですが、光明・名号を信受すると言いましても、それはわれらの力によるのではありません、あくまでも光明・名号自体のはたらきによります。光明・名号の不思議な力(これを本願力といいます)により、あるとき本願の海のなかで生かされていることに気づかされるのです。これが「本願の大智海に開入する」ということですが、それが取りも直さず第2句の「行者まさしく金剛心を受けしめ」ということです。


「本願の大智海に開入〈すれば〉、行者まさしく金剛心を受けしめ」という言い方から、先ず本願の大智海に入り、その後に金剛の信心を受けるかのような印象が生まれるかもしれませんが、第1句と第2句の間に時間の経過があるわけではありません。光明・名号を信受することが取りも直さず金剛の信心を得ることであり、この二つは同じことを述べています。