(3)本願を信じ念仏を申さば仏に成る


この文の冒頭で「真実の証」とは無上涅槃すなわち仏の悟りに他ならないと宣言されます。『歎異抄』第12章のことばを借りますと、「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」ということです。一般に仏教の目標は悟りをひらいて仏になることにあり、浄土の教えもまたその例外ではなく、仏になることがその最終目標です。そして次に、そのことは必至滅度の願すなわち第十一願にうたわれていることが述べられます。先回りしてその願を上げておきますと、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚(正定聚)に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」とあります。この願が証大涅槃の願とも呼ばれるのは『如来会』の第十一願に「大涅槃を証せずは、菩提を取らじ」とあるからです。


滅度と涅槃は同じ意味で、仏の悟りの境地を指し、煩悩の炎が完全に消えた状態を言います。仏教はみなこの境地を目指すのですが、浄土の教えの特徴は、われらは今生においてこの境地に至ることは不可能であるとする点にあります。われらはみな「わたしのいのち」を生きています(※)。これが我執のもとであり、あらゆる煩悩は我執から生まれてきますから、「わたしのいのち」を生きている限り、煩悩の炎が完全に消えることはありません。かくして涅槃の境地は「わたしのいのち」が終わった後、すなわち来生に期さざるをえないことになります。


「わたしのいのち」を生きることと、「わたしのいのち」に囚われて生きることははっきりと分けなければなりません。「わたしのいのち」を生きるとは、何を思い、何を感じ、何をするにせよ、それらはみなこの「わたし」に起っていると意識することです。この意識は意識そのものがなくならない限り消えることはありません。唯識派が「末那識」といい、デカルトが「われ思う(コギト)」というのは、この意識のことでしょう。


それに対して「わたしのいのち」に囚われるというのは、何かを思い、何かを感じ、何かをすることは、みな他ならぬこの「わたし」が起こしているとすることです。「わたし」がそれらの「第一起点」となっているということです。そうしますと、この「わたし」が他の「わたし」より優位におかれることになります。「わたし」に何かが起こるのは「たまたま」にすぎませんが、「わたし」が何かを起こすのは、この「わたし」がその第一起点となっているのですから、この「わたし」は格別な存在であることになります。これが「わたしのいのち」に囚われるということであり、煩悩に振り回されることです。


デカルトが「われ思う」ことから「ゆえにわれあり」を導いたのは、「わたしのいのち」を生きることと「わたしのいのち」に囚われて生きることを混同していると言わざるをえません。