(8)本文4
『論註』からの最後の引用です。
また『論』にいはく、「荘厳清浄功徳成就(国土荘厳十七種の第一荘厳)とは、偈に〈観彼世界相 勝過三界道(かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり)〉といへるがゆゑにと。これいかんぞ不思議なるや。凡夫人の煩悩成就せるありて、またかの浄土に生ずることを得れば、三界の繫業(迷いの世界につなぎとめる煩悩の業)畢竟じて牽かず。すなはちこれ煩悩を断ぜずして涅槃分を得。いづくんぞ思議すべきや」と。以上抄要
親鸞は『論註』からの引用の順序をひっくり返して、最後の文として国土荘厳十七種のなかの第一荘厳を引いていますが、これには理由があります。それはこの第一荘厳に国土荘厳のすべて(いや国土荘厳だけでなく、仏荘厳、菩薩荘厳を含めたすべての荘厳)が収まるからです。親鸞がそう見ているというよりも、天親そして曇鸞がそのように説いているのです。すなわちこの「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」という第一荘厳こそ、すべての荘厳の総括にあたるということです。
では「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり」とはどういうことかと曇鸞は問い、かの世界では「煩悩を断ぜずして涅槃分を得」ることができるからだと答えます。
ところで、この文で気になりますのは、「煩悩を断ぜずして涅槃を得」と言えばよさそうなところを、どうして「涅槃〈分〉を得」と言っているのだろうということです。大乗仏教の究極の真理として持ち出されるのが、「煩悩即菩提」あるいは「生死即涅槃」ですから、曇鸞としても「涅槃を得」と言えばいいのに、どうしてそうしないのか。因みに親鸞は「正信偈」において、おそらく曇鸞のこのことばを念頭に、「よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり(能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃)」と詠っていますが、これは七文字に整える必要からでしょう。