(4)第3回、本文2
今度は善導『観経疏』から二文引かれます。まずは「玄義分」から。
光明寺の『疏』にいはく、「弘願といふは、『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざることなしとなり。また仏の密意弘深なれば、教門をして暁りがたし。三賢(十住・十行・十回向)・十聖(十地)測りて闚ふところにあらず。いはんやわれ信外の軽毛(十信の位にも入ることのできない凡夫)なり。あへて旨趣を知らんや。仰いでおもんみれば、釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎す。かしこに喚びここに遣はす、あに去かざるべけんや。ただねんごろに法に奉へて、畢命(一生)を期として、この穢身を捨てて、すなはちかの法性の常楽を証すべし」と。
『観経疏』は「玄義分」・「序分義」・「定善義」・「散善義」の四巻仕立てで、「玄義分」では善導がこれから『観経』を注釈するについて、その基本方針が述べられますが、親鸞が「玄義分」のなかでもとりわけこの文を取り上げているのは、ここに善導浄土教のエッセンスがあるという思いからに違いありません。まず『大経』の弘願の教えについて、われらの往生はひとえに阿弥陀仏の大願業力(本願力)によるものであると、その本質を簡潔かつ的確に言い表しています。
そして注目すべきはその後につづく文で、仏の密意は「三賢・十聖」もはかり知ることができず、まして「信外の軽毛」のわたしのごときものには及びもつかないと述べられています。
菩薩道には十信・十住・十行・十回向・十地・等覚・妙覚(仏の覚り)の五十二階位があるとされ、十信位を外凡、十住・十行・十回向位を内凡あるいは三賢、十地位を十聖といいますが、善導はみずからを十信にも入らない「信外の軽毛」と謙遜しているのです。そして仏の深い悟りの境地は「三賢・十聖」もうかがい知ることができず、われらがごときものには無縁であると述べます。ところがそのようなわれらを「釈迦はこの方より発遣し、弥陀はすなはちかの国より来迎」してくださり、本願に遇うことができれば、いのち終わったのちに「法性の常楽を証す」ことができると言うのです。