(7)本文3
同じく善導『観経疏』の文で、今度は「定善義」から。
またいはく、「西方寂静無為の楽には、畢竟逍遥して(何ものにもとらわれないこと)有無を離れたり。大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。分身して(身を分かち、姿を変えて)物(衆生)を利すること等しくして殊なることなし。あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余(涅槃)に入る。変現の荘厳、意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こると。また讃じていはく、帰去来、魔郷には停まるべからず。曠劫よりこのかた六道に流転して、ことごとくみな経たり。到る処に余の楽しみなし。ただ愁歎の声を聞く。この生平(一生)を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」と。以上
ここは善導がみずからの讃文(『法事讃』や『般舟讃』にあります)を二つ引いていまして、前半は「寂静無為の楽」を描き、後半はこの娑婆という魔郷から涅槃の城に「帰去来(いざいなん)」と詠っています。前半はいのち終わって後の涅槃の世界、後半は現生において信を得たときの風光というように、涅槃の世界に入ってからと、これから涅槃の世界に入ろうとしているときのコントラストが鮮やかです。そこで、いまいちど第十一願に戻り、このコントラストについて考えておきたいと思います。「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天、定聚(じょうじゅ、正定聚です)に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ」の、現生において「定聚に住す」ことと来生に「滅度に至る」ことの関係です。
この問題に何度もこだわらざるをえないのは、浄土の経典には「西方寂静無為の楽(みやこ)」の荘厳(すばらしいありさま)がこれでもかと説かれ、それをもとにして善導などの祖師たちもわが目で見てきたかのよう語るのですが、そこを読むたびにこころがざわつくからです。「西方寂静無為の楽」とは、われらのいのちが終わってからあとの世界に違いありませんが、どういう根拠でいのち終わってからのことを語ることができるのだろうかと思わざるをえないのです。