(6)第9回、本文2


善巧摂化(ぜんぎょうせっけ)の章がつづきます。



〈なにものか菩薩の(ぎょう)方便(ほうべん)回向(えこう)。菩薩の巧方便回向とは、いはく、礼拝等の五種の修行(五念門)を説く、所集の一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず(自分のために楽を求めるのではなく)、一切衆生の苦を抜かんと欲(おぼ)すがゆゑに、作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ。これを菩薩の巧方便回向成就と名づく〉(浄土論)とのたまへり。王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生(上輩・中輩・下輩の三種類の行者)のなかに、行に優劣(うれつ)ありといへども、みな無上菩提の心(この上ない仏の覚りを求める心)を発せざるはなけん。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心(仏になろうとする心)なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心(衆生を済度しようと思う心)なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑに、かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発(ほっ)するなり。もし人無上菩提心を発せずして、ただかの国土の(じゅ)(らく)無間(むけん)(楽を受くることひまなし)なるを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ずるは、またまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑに、〈自身(じしん)住持(じゅうじ)の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲すがゆゑに〉とのたまへり。〈住持楽〉とは、いはく、かの安楽浄土は、阿弥陀如来の本願力のために住持せられて、楽を受くること間(ひま)なきなり。



ここでもまた親鸞独自の読みがありますので、まずそれを確認しておきましょう。『浄土論』のことばとして「作願して一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜしむ」と出てきますが、これは「一切衆生を摂取して、ともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願する」と読むのが普通です(原文は「作願摂取一切衆生共同生彼安楽仏国」)。親鸞の意図は明らかでしょう。普通の読みでは主語が「われら」ですが、親鸞はそれを「法蔵菩薩」へと転換しているのです。親鸞においては作願の主体としての「われら」は背景に退き、「法蔵菩薩」が前面に出てくるのです。