(6)第10回、本文3
障菩提門、順菩提門の後に、名義摂対(みょうぎせったい)の章がつづきます。この間に出てきたさまざまなことば相互の関係を説く段です。
名義摂対とは、〈向に智慧・慈悲・方便の三種の門は般若を摂取す(その中に収めている)。般若、方便を摂取すと説きつ、知るべし〉(浄土論)とのたまへり。〈般若〉とは如(一如、ものごとの真実の相)に達するの慧の名なり。〈方便〉とは権(実に対し方便のこと)に通ずるの智の称なり。如に達すればすなはち心行寂滅(心のはたらきが滅する)なり。権に通ずれば、すなはちつぶさに衆機を省く(通常は「衆機を省みる」)。機を省く(これも「機を省みる」)の智、つぶさに応じて無知なり(分別知ではないということ、無分別智)。寂滅の慧、また無知にしてつぶさに省く(「省みる」)。しかればすなはち、智慧と方便と、あひ縁じて動じ、あひ縁じて静なり。動、静を失せざることは智慧の功なり。静、動を廃せざることは方便の力なり。このゆゑに智慧と慈悲と方便と、般若を摂取す。般若、方便を摂取す。〈応知(知るべし)〉とは、いはく、智慧と方便はこれ菩薩の父母なり、もし智慧と方便とによらずは、菩薩の法則(「法すなはち」)成就せざることを知るべし。なにをもつてのゆゑに。もし智慧失くして衆生のためにする時には、すなはち顚倒に堕せん。もし方便なくして法性を観ずる時には、すなはち実際(小乗の涅槃のこと)を証せん。このゆゑに〈知るべし〉と。
障菩提門において、還相の菩薩は智慧門により「我心貪着自身」を遠離し、慈悲門により「無安衆生心」を遠離し、方便門により「供養恭敬自身心」を遠離することが説かれましたが、この智慧と慈悲と方便の三つの門はみな般若、すなわち真如の智慧をそのなかに収めているというのです。そしてその般若は方便、すなわち衆生のありようをつぶさに見る知恵をそのなかに収めているから、かくして般若と方便とは二にして一であると説きます。この「般若と方便」は「実智と権智」と言い換えることができますし、また「真諦と俗諦」ということもできるでしょう。要するに「ものごとの一如の相を悟る仏智」と「ものごとの差別の相をつぶさに見る人知」ということです。