(12)第3段
第1通の最後、第3段です。
古歌にいはく
うれしさをむかしはそでにつつみけり こよいは身にもあまりぬるかな
「うれしさをむかしはそでにつつむ」といへるこころは、むかしは、雑行・正行の分別もなく、念仏だにも申せば、往生するとばかりおもいつるこころなり。「こよいは身にもあまる」といへるは、正雑の分別をききわけ、一向一心になりて、信心決定のうへに仏恩報尽のために念仏申すこころは、おおきに各別なり。かるがゆえに身のおきどころもなく、をどりあがるほどにおもふあひだ、よろこびは身にもうれしさがあまりぬるといへるこころなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明三年(1471年)七月十五日
(現代語訳) むかしのうたにこうあります、「うれしさを むかしは胸に ひめていた いまはもう身に あふれるばかり」。
「うれしさを むかしは胸に ひめていた」と言いますのは、むかしは、雑行と正行の区別もできず、ただ念仏をしていれば往生できると思っていたということです。「いまはもう身に あふれるばかり」と言いますのは、雑行と正行の違いがはっきり分かり、ただひとすじに信心が定まったうえで、その御恩に報じるために念仏をもうすということで、以前とはまったく違います。だからこそ、身のおきどころもないほど、身体が自然におどりあがるほど、よろこびが全身にあふれ出てくると言っているのです。謹言。
文明3年7月15日
最後にきて、急に話題が飛びます、「坊主と門徒」の話から「身にもあまるよろこび」へと。