(12)十劫安心(じっこうあんじん)
ちょっと先回りになりますが、1・13にこうあります、「ちかごろは、この方念仏者のなかにおいて、不思議の名言をつかひて、これこそ信心をえたるすがたよといひて、しかもわれは当流の信心をよく知り顔の体に、心中にこころえおきたり。そのことばにいはく、『十劫正覚のはじめより、われらが往生を定めたまへる弥陀の御恩をわすれぬが信心ぞ』といへり。これおほきなるあやまりなり」(「このごろ、この越前の国に、あやしげなことばをあやつり、われこそ当流の真実の信心をえたるものと言っているものがおります。そのものは、十劫のむかしに法蔵が正覚をとったときに往生がさだまったのであるから、その恩を忘れないのが信心である、と言うのですが、これは大変なあやまりです」)と。
これは「十劫安心」(あるいは「十劫秘事」)とよばれ、異安心として退けられるのですが、ぼくはこの蓮如のことばを読むたびに、何か自分のことを指さされているような感じになり、こころが落ち着かなくなります、「オレは異安心なのか」と。異安心とは、親鸞の正統な教えをゆがめる誤った見解で、キリスト教においては異端とよばれるものに当たります。この異端というレッテルは破門や火あぶりと結びつき、そのことば自体に恐ろしさがつきまといますが、異安心にも似たような響きがあります。そこには大きな問題が潜んでいるような気がするのですが、それについてはまた折をみてじっくり検討することにして、いまは「十劫安心」がどうして「おほきなるあやまり」なのかを考えておきたい。
「十劫正覚のはじめよりわれらが往生を定めたまへる」ということは、経にそのように書かれており、浄土の教えはそれに依拠しているのですから、決して「あやまり」ではありません。では何が問題なのかといいますと、そのように人に向かって説いているものが、己の身の上にそれを証していないということです。誓願が成就したのは十劫のむかしであるのは間違いありませんが、時間が十劫のむかしで止まっていて、その人の身の上に「いま」誓願が成就していないということです。
信心が定まらなくても往生はもう定まっています。ただ、信心が定まらないということは、そのことに気づいていないということに他ならず、迷いのなかをさまよい続けているということです。