(26)秘められた恋
どうして心を囲い込むのか。「秘められた恋」を例に考えてみましょう。
ある人が愛しくて仕方がないのに、それをひた隠しにして素振りにも出さない。愛しい気持ちは自然に外に現れるものです。心は体に滲み出てきます。やはり心はもともと「清き明きこころ」なんです。だからこそ、それを隠そうとすると必死にならなければなりません。
どうして愛しい気持ちを隠そうとするのか。言うまでもありません、それが相手に分かってすげなく振られるのが怖いからです。愛しい気持ちを打ち明けて、振られてしまったらどうしようと思うからです。
心はもともと開けっぴろげ。ところが「それじゃ困る」と規制がかかります。イエスの言う「心のうちの姦淫」がみんなに筒抜けだったら、これは確かに困る。そこから「隠せ」という至上命令が下るのです。
「きみの悲しみ、よく分かるよ」と言われて、「分かってたまるか」と思うのは、もともと分からないようになっているのではなく、分かってはならない、分からないように隠さなければならないからなのです。
もともと「ぼくの悲しみ」も「きみの悲しみ」もないのですが、「悲しみ」を隠さなければならない事情に迫られ、その結果「ぼくの悲しみ」や「きみの悲しみ」が登場してくるようです。
どうして心を囲い込むのか。「秘められた恋」を例に考えてみましょう。
ある人が愛しくて仕方がないのに、それをひた隠しにして素振りにも出さない。愛しい気持ちは自然に外に現れるものです。心は体に滲み出てきます。やはり心はもともと「清き明きこころ」なんです。だからこそ、それを隠そうとすると必死にならなければなりません。
どうして愛しい気持ちを隠そうとするのか。言うまでもありません、それが相手に分かってすげなく振られるのが怖いからです。愛しい気持ちを打ち明けて、振られてしまったらどうしようと思うからです。
心はもともと開けっぴろげ。ところが「それじゃ困る」と規制がかかります。イエスの言う「心のうちの姦淫」がみんなに筒抜けだったら、これは確かに困る。そこから「隠せ」という至上命令が下るのです。
「きみの悲しみ、よく分かるよ」と言われて、「分かってたまるか」と思うのは、もともと分からないようになっているのではなく、分かってはならない、分からないように隠さなければならないからなのです。
もともと「ぼくの悲しみ」も「きみの悲しみ」もないのですが、「悲しみ」を隠さなければならない事情に迫られ、その結果「ぼくの悲しみ」や「きみの悲しみ」が登場してくるようです。