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「心がつながる」 [生きる意味(その56)]

(27)「心がつながる」
 でも、もともと「ぼくの心」も「きみの心」もないとしますと、これは大変なことではないでしょうか。心はもともと誰のものでもないとすると、えらいことになります。
 考えてもみましょう。ぼくが何かを「する」時、そこには必ず「ぼくの心」があります。もしそれが「ぼくの心」ではなく、「誰のものでもない心」だとしますと、それをこの「ぼく」が「する」のではなくなります。それをしたのは誰だと聞かれた時、「ぼくです」とは言えなくなります。
 ですから、「ぼくの心」があり「きみの心」があるのは当たり前のことです。その前提の上にこの世の中が成り立っていると言っていい。
 ぼくらはしばしば「心がつながる」とか「心がひとつになる」と言います。誰かと心がつながったと感じた時、何とも言えない喜びが湧き上がってきます。つながるということは、元は切れていたということです。こちらに「ぼくの心」があり、あちらに「きみの心」があって、ある時それがひとつにつながる。
 しかし、そんなことがどうして可能でしょうか。ぼくらは心を体と同じように皮膚のようなもので閉じられたものとしてイメージしますから、それがひとつにつながるということがどうにも腑に落ちない。
 恋人たちは手をつなぐことで一体感を得ようとします。ぼくの手がきみの手に触れる瞬間、静電気が走ったような感じになり、その後じわーっときみの手のぬくもりがぼくの手に伝わってきます。手は皮膚と皮膚を合わせることによってしてしかつながることはできませんが、さて心はどのようにつながることができるのか。

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