第2回 はじめに願いありき
(1) 偈文1
冒頭の二句、「帰敬偈」です。
帰命無量寿如来 南無不可思議光
無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。
「帰命無量寿如来」も「南無不可思議光」も「南無阿弥陀仏」ということで、「正信偈」六十行・百二十句はこの「南無阿弥陀仏」に収まると言えます。
ある方が御母堂のことを思い出しながら、「そういえば、おふくろは誰かと話をするとき、話の最後にいつも『なむあみだぶつ、なむあみだぶつ』とつけていたなあ」と述懐されたのが印象に残っています。それを聞いて思い出したのが、ぼくがまだ小さかった頃のことですが、家の近くにちょっと変わったお婆さんがいて、いつも「ありがたい、ありがたい」とつぶやいていたことです。ある暑い日、道に水うちをしていた人から、着物の裾に水をかけられたのですが、そのときも「ありがたい、ありがたい」とつぶやいて、水をかけた人を驚かせたそうです。そのお婆さんの「ありがたい」は先の御母堂の「なむあみだぶつ」です。
親鸞は「正信偈」をはじめるに当たり「なむあみだぶつ、なむあみだぶつ」と称えているのです。
「なむあみだぶつ」の「なむ」ですが、これは梵語の「namo」の音をとって「南無」としています。では「namo」とは何かといいますと、「namah」すなわち「敬礼します」の語尾が変化したもので、いまもインドでは「namas te」(ナマステ)すなわち「あなた(te)に敬礼します」ということばが「こんにちは、さようなら、ありがとう」を意味する挨拶語としてつかわれています。次に「あみだぶつ」ですが、これは「あみだ」と「ぶつ」に分かれ、「あみだ」は梵語の「amitayus」あるいは「amitabha」の「amita」の音を取り「阿弥陀」としています。「amita」の意味は「無量」で、「amitayus」は「無量のいのち」、そして「amitabha」は「無量のひかり」の意味になります。「ぶつ」も梵語の「buddha」の音を取り「仏陀」として、それを「仏」と略したものです。「buddha」とは「目覚めた人」の意味です。