(9)第5回、本文5
上の問いに対する回答はまだつづきます。そしてここで曇鸞は第二十二願を持ち出し、初地の菩薩も「畢竟じて」上地の菩薩と等しいことを確認します。
また次に『無量寿経』のなかに、阿弥陀如来の本願にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆 わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らん。その本願の自在の所化(教化するところ)、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て、徳本を積累し、一切を度脱せしめ、諸仏の国に遊びて、菩薩の行を修し、十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは、正覚を取らじ〉(以上が第22願)と。この『経』を案じて、かの国の菩薩を推するに、あるいは一地より一地に至らざるべし。十地の階次といふは、これ釈迦如来、閻浮提(娑婆世界)にして一つの応化道(方便の道)ならくのみと。他方の浄土は、なんぞかならずしもかくのごとくせん。五種の不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。もし菩薩かならず一地より一地に至りて、超越の理なしといはば、いまだあへて詳らかならざるなり(仏法の不思議をよく知らないのである)。たとへば樹あり、名づけて好堅といふ。この樹、地より生じて百歳ならん。いましつぶさに一日に長高くなること百丈(1丈は10尺、約3m)なるがごとし。日々にかくのごとし。百歳の長を計るに、あに修松(高い松の木)に類せんや。松の生長するを見るに、日に寸を過ぎず。かの好堅を聞きて、なんぞよく即日を疑はざらん(どうして一日に百丈のびるということを疑わないことがあろうか)。人ありて、釈迦如来、羅漢を一聴に証し(一度の説法で阿羅漢の悟りをひらかせる)、無生を終朝(夜明けから朝食までの間)に制すとのたまへるを聞きて、これ接誘(誘引する)の言にして称実(実際)の説にあらずと謂へり。この論事を聞きて、またまさに信ぜざるべし。それ非常の言(普通でない言葉)は、常人の耳に入らず。これをしからずと謂へり。またそれ宜しかるべきなり(それもまた当然のことである)と。