(10)第6回、本文5
さて、もうすでに「ほとけのいのち」を生きていることに気づいた喜びは、自分の中におとなしくおさまっていることはできません。その喜びはおのずから周囲に発散していくことになります。
それは日の光は日の中におさまっていることはできず、否応なく四方八方に発散していくようなものです。愛知県の岡崎に住んでいますが、時々(時と処の条件がうまくそろいますと)木曽の御岳を目にすることがあります。とりわけ冬の澄みきった日など、雪を頂いた神々しい姿を見ることができますと、心に喜びが湧きあがってきます。そしてこの喜びはそのままではとどまらず、周囲の誰彼なしにそれを伝えたくなります、「ほら、あそこに御岳が」と。還相の菩薩は「ほとけのいのち」に遇うことができた人であり、「うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶ」人です。そしてその喜びはそのままではおさまらず、周囲の誰彼にそれを伝えたくなります、「ほら、ここに『ほとけのいのち』が」と。
さて還相の菩薩についての第三の文です。
〈三つには、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し恭敬(つつしみ敬う)し讃嘆す。偈に《天の楽・華・衣・妙香を雨りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別(わけへだて)の心あることなし》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。〈余なく〉とは、あまねく一切世界、一切諸仏の大会に至りて、一世界・一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。肇公(僧肇、鳩摩羅什の弟子)のいはく、〈法身は像なくして形を殊にす。ならびに至韻(説法の声)に応ず。言なくして玄籍(経典)いよいよ布き、冥権(はかり知ることのできない済度のはたらき)謀なくして動じて事と会す〉と。けだしこの意なり。
今度は菩薩が一切の諸仏の仏会に至り、諸仏の功徳を讃嘆すると述べられます。僧肇のことばが分かりにくいですが、これは通常は「法身は像なくして珠形並び応じ、至韻は言なくして玄籍弥(ひろ)く布けり」と読み、「これと示せる形はないが、しかもさまざまな形となり、これと限定されたことばはないが、しかもさまざまな教えとなる」という意味です。諸仏・菩薩の自在無碍な済度のはたらきを言い表しているのです。