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第6回、本文5 [「『証巻』を読む」その61]

(10)第6回、本文5

さて、もうすでに「ほとけのいのち」を生きていることに気づいた喜びは、自分の中におとなしくおさまっていることはできません。その喜びはおのずから周囲に発散していくことになります。

それは日の光は日の中におさまっていることはできず、否応なく四方八方に発散していくようなものです。愛知県の岡崎に住んでいますが、時々(時と処の条件がうまくそろいますと)木曽の御岳を目にすることがあります。とりわけ冬の澄みきった日など、雪を頂いた神々しい姿を見ることができますと、心に喜びが湧きあがってきます。そしてこの喜びはそのままではとどまらず、周囲の誰彼なしにそれを伝えたくなります、「ほら、あそこに御岳が」と。還相の菩薩は「ほとけのいのち」に遇うことができた人であり、「うべきことをえてんずとかねてさきよりよろこぶ」人です。そしてその喜びはそのままではおさまらず、周囲の誰彼にそれを伝えたくなります、「ほら、ここに『ほとけのいのち』が」と。

さて還相の菩薩についての第三の文です。

〈三つには、かれ一切の世界において、余なくもろもろの仏会(ぶつえ)を照らす。大衆余なく広大無量にして、諸仏如来の功徳を供養し()(ぎょう)(つつしみ敬う)し讃嘆す。偈に《天の(がく)()()妙香(みょうこう)(あめふ)りて、諸仏の功徳を供養し讃ずるに、分別(ふんべつ)(わけへだて)の心あることなし》といへるがゆゑに〉(浄土論)と。〈余なく〉とは、あまねく一切世界、一切諸仏の大会(だいえ)に至りて、一世界・一仏会として至らざることあることなきを明かすなり。(じょう)(こう)(そう)(じょう)鳩摩羅什(くまらじゅう)の弟子)のいはく、〈法身は(かたち)なくして形を(こと)にす。ならびに()(いん)(説法の声)に応ず。(ことば)なくして(げん)(せき)(経典)いよいよ()き、冥権(みょうごん)(はかり知ることのできない済度のはたらき)(はかりごと)なくして動じて事と会す〉と。けだしこの(こころ)なり。

今度は菩薩が一切の諸仏の仏会に至り、諸仏の功徳を讃嘆すると述べられます。僧肇のことばが分かりにくいですが、これは通常は「法身は像なくして珠形並び応じ、至韻は言なくして玄籍弥(ひろ)く布けり」と読み、「これと示せる形はないが、しかもさまざまな形となり、これと限定されたことばはないが、しかもさまざまな教えとなる」という意味です。諸仏・菩薩の自在無碍な済度のはたらきを言い表しているのです。


タグ:親鸞を読む
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