(9)第1帖・第3通
次の第3通に進みます。
まづ当流の安心のおもむきは、あながちにわがこころのわろきをも、また妄念妄執のこころのおこるをも、とどめよといふにもあらず。ただあきなひをもし、奉公をもせよ。猟・すなどり(漁)をもせよ、かかるあさましき罪業にのみ、朝夕まどいぬるわれらごときのいたづらものを、たすけんと誓ひまします弥陀如来の本願にてましますぞとふかく信じて、一心にふたごころなく、弥陀一仏の悲願にすがりて、たすけましませとおもふこころの一念の信まことなれば、かならず如来の御たすけにあづかるものなり。このうへには、なにとこころえて念仏申すべきぞとなれば、往生はいまの信力によりて御たすけありつるかたじけなき御恩報謝のために、わがいのちあらんかぎりは、報謝のためとおもひて、念仏申すべきなり。これを当流の安心決定したる信心の行者とは申すべきなり。あなかしこ、あなかしこ。
文明三年十二月十八日
(現代語訳) まず、わが門流の安心の教えでは、必ずしも、自分のこころの悪を、また妄念妄執が起こってくるのをとどめなければならないというものではありません。普通に商売をし、奉公にもつとめ、また狩猟や漁労の仕事をしていればいいのです。このようなあさましい罪業を朝夕つみかさねているわれらのような横着ものをたすけてやろうとお誓いくだされたのが弥陀の本願であるぞとふかく信じて、迷うことなく弥陀一仏の悲願にすがりつき、おたすけくださいと願うこころの一念がまことでありましたら、かならずや弥陀のおたすけに与ることができるのです。このように信じられましたうえには、どのようなこころで念仏をもうせばいいかといいますと、この信で往生は定まり、おたすけに与ったのは何とかたじけないことかと思い、その御恩にむくいるために、いのちあらんかぎり念仏をすべきです。これを当流の安心が定まった信心の行者というのです。謹言。