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難信の法 [「信巻を読む(2)」その10]

(10)難信の法

この後、本願の教えは難信であることが述べられます。まずは元照(がんじょう)の文です。

元照律師のいはく、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世こぞっていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。

またいはく、「念仏法門は、愚智・豪賤をえらばず、久近・善悪を論ぜず、ただ決誓猛信(けっせいみょうしん、確固とした信心)を取れば、臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚(縛は煩悩、煩悩具足の愚痴の凡夫)、屠沽(とこ)の下類(屠は獣を屠るもの、沽は酒を売るもの、賤しい職業とされた)、刹那に超越(ちょうおつ)する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。

またいはく、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。さきの二難をうけて、すなはち諸仏所讃のむなしからざるこころをあらはす。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。以上

元照はすでに「行巻」でもかなり引用されていましたが、宋代の人で天台宗から律宗に移り、最後は浄土の教えに帰した僧です。ここに上げられたのは彼の『阿弥陀経義疏』の文で、釈迦がこの悪世において本願念仏の教えを説いたのは甚難であり希有であると讃え、そしてこの法門自体が甚難信であると述べています。何がそんなに難しいのかと言えば、この法は「具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法」であるからです。到底救われがたいものが、ただ本願を信じるだけで、ただ念仏するだけで往生し成仏できるというのですから、甚難信となるのです。

それがどれほど難信であるかを感じるために、もういちど「すでにつねに浄土に居す」ということばに戻りましょう。この世は紛れもなく五濁悪世ですが、そんな世に生きながら「すでにつねに浄土に居す」とはどういうことか。思い出すことがあります。ぼくの親鸞講座を受講されている人で、政治的にかなり左の方とお見受けしましたが、その人、ぼくが「娑婆は娑婆のままですでに浄土です」と述べたとき、「そんな思想に用はありません」と吐き捨てるように言われました。この現実を浄土だなどと言うのは、まさにマルクスの言う「アヘン」ではないかということでしょう。


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すでにつねに浄土に居す [「信巻を読む(2)」その9]

(9)すでにつねに浄土に居す

いつも言いますように、仏教の因果という概念は、われらが日常でつかっている原因・結果と微妙に、しかし根本的に異なります。原因と結果は時間的に分離されていますが、仏教の因と果はひとつにつながっています。いまの場合、本願という因と浄土という果は別にあるのではありません、本願のなかに浄土があり、浄土のなかに本願があるというようにひとつになっています。本願とは「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」ですが、その「ねがい」が実現した世界が浄土であり、浄土とは本願の世界です。ですから本願のあるところ、そこに浄土があり、浄土があるところ、そこに本願があります。

では本願はどこにあるかといいますと、他ならぬわれらの信心としてあり、それ以外のどこにもありません。本願と信心はひとつです。としますと、本願のあるところに浄土があるのですから、信心のあるところ、そこに浄土があるということになります。浄土はそれ以外のどこにもありません。かくして「信心のひとは、その心すでにつねに浄土に居す」(『末燈鈔』第3通)と言わなければなりません。これが往生ということであり、それは決してここではないどこかへ往き生まれることではありません。往生とはいうものの、それはどこかへ往くことではなく、「すでにつねに浄土に居す」ことに気づくことです。

そして信心の人は本願の人であり、「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」をわが願いとしている人ですから、自分の周りにいる生きることに苦しんでいる人たちを救いたいと願わざるをえません。このように見てきますと、往相がそのままで還相であることは奇異なことではなくなります。往相とは、ここが浄土であることに気づくこと、浄土の光のなかを歩むことであり、還相とは、ここは紛れもなく穢土であり、みなそれぞれに生きることに苦しんでいると気づき、その人たちとともに生きようとすることです。この二つは二つにして一つです。信心の人は浄土の光のなかをともに歩みながら、同時に穢土の闇をともに生きるのです。


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往相と還相 [「信巻を読む(2)」その8]

(8)往相と還相

ところが「願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」という文言は、この構図に重大な疑義を突きつけます。願作仏心とは仏になろうとする心ですから往相であり、度衆生心とは衆生を救おうとする心ですから還相であると言えます。さて願作仏心はそのままで同時に度衆生心であるとしますと、往相は往相のままで還相であると言わなければなりません。しかし往くことがそのままで還ることというのはどういうことか。先ほど言いましたように、往相・還相ということば自体に前と後という意味あいが含み込まれていますから、往くことが還ることというのはどうにもすんなりと咽喉を通ってくれません。

問題の根源は「往生」ということばにあると言わなければなりません。往生とは何か。字書をみますと、「この世の命が終って、他の世界に生まれることをいう」とあり、さらに「浄土思想の発展によって、この穢土を離れてかの浄土に往き生れることをいうようになった」とあります(『岩波仏教辞典』)。往生思想の源は生天思想すなわち来生に天(六道の最上位)に生まれたいと願うことにあったのですが、浄土思想のもとで、天に生まれることも輪廻のなかとされ、輪廻を超えて浄土に生まれることを願うようになりました。しかし往生の根本的な構図に変わりはありません、ここではないどこかへ往って生まれることです。

さてしかし龍樹の空を学んだ曇鸞(浄土の教えに帰す前は四論宗の人でした)がこの構図をそのまま受け入れることができるはずはありません。空とは無生ということですから往生ということばと真っ向からぶつかります。曇鸞はそのことについて、『論註』でこう言います、「かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有(三界-欲界・色界・無色界-という迷いの境界)虚妄の生のごときにはあらざることを明かす」と。往生とは「無生の生」であり、われらが普通に考えるような生ではないというのです。曇鸞は虚妄の生のごときものではないとしか言ってくれませんが、「無生の生」とはどういうことでしょう。

「正信偈」に「報土の因果誓願に顕す」とあるのを手がかりに考えてみましょう。曇鸞は浄土の因が本願にあることを明らかにしたというのですが、これはどういう意味か。


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信心の人は本願の人 [「信巻を読む(2)」その7]

(7)信心の人は本願の人

そこで如来回向の無上菩提心、他力の回向発願心の登場です。横超の菩提心とは何か、もう一度その原点に戻りましょう。弥陀の本願(「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」)が、名号(「南無阿弥陀仏」の「こえ」)となってわれらのもとに届けられ、それをわれらがしかと聞受したところが信心すなわち菩提心です。すなわち本願がわれらのもとにやってきてわれらの信心となるのです。われらが本願を信受するということは、本願がみずからわれらの信心となるということであり、本願はみずからわれらの信心となることによってわれらを救うのです。

さて、本願がわれらの信心となるということは、信心を得た人は本願の人に他ならないということです。すなわち信心の人とは「いのち、みな生きらるべし」という「ねがい」をわが願いとして生きる人であり、第十八願のことばで言えば、「もし(一切衆生が)生れずは、正覚を取らじ(若不生者、不取正覚)」という誓いをわが誓いとして生きる人です。ここまできまして、「願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」ということばが正確に理解できます。願作仏心すなわち菩提心を得た人(如来から賜った人)とは本願の人であり、「もし生れずは、正覚を取らじ」をわが誓願として生きる人ですから、もうすでに度衆生心を生きているということです。

願作仏心と度衆生心はコインの表と裏の関係にあり、願作仏心のあるところ必ず度衆生心があります。

ここから往相と還相の関係についてきわめて大事な結論が出てきます。往相・還相ということばそのものに、「まず往相、その後に還相」という意味が染み込んでいます(それは『浄土論』の「入」と「出」でも同じです)。まず往き、しかる後に還るしかないからです。かくして往相と還相は時間的に切り離されることになり、また必然的に「ここ(娑婆)」と「かしこ(浄土)」が空間的に分離されます。すなわち、まず「ここ」から「かしこ」へ往き、後に「かしこ」から「ここ」に還ってくるという構図です。


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プラスではなくイコール [「信巻を読む(2)」その6]

(6)プラスではなくイコール

いつものごとく回向の主体を「われら」から「如来」へとコペルニクス的に転回しているのです。親鸞にとって回向発願心(ここでは無上菩提心)とは、われらがみずから持たなければならないものではなく、如来から賜るものであるということです。われらがみずから持とうとしても持てるものではなく、如来から与えられるものであるということ、このことがここで語られていることと深く結びついています。この文の核心は、無上菩提心は願作仏心でありながら、同時に度衆生心であるということですが、そのような無上菩提心はわれらの心ではありえず、もともと如来の心であるということです。したがって、それがわれらにあるということは、如来から賜ったのであるということになります。

願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」ということばを正確に理解しなければなりません。これは「願作仏心は同時に度衆生心でなければならない」というように読んでしまいがちですが、そうではありません。無上菩提心をみずから持たなければならないという自力の立場に立ちますと、それはただ自分が仏になろうとする(願作仏心)だけでなく、一切衆生を救おうとする(度衆生心)ものでなければならないとなります。自利だけでなく利他でなければならないということで、「自利プラス利他」ということです。しかし「願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」の「すなはち」は「プラス」ではなく「イコール」です。願作仏心はそのままで度衆生心であるということです。

「願作仏心プラス度衆生心」というのは理解しやすいでしょう。「自分のことだけではなく、他人のことも考えなければ」ということで、耳に通りやすいと言えます。これは自力の立場から発せられたことばだからです。しかし「願作仏心イコール度衆生心」は分かりにくいと言わなければなりません。自分が仏になりたいと願うことと、一切衆生を救いたいと願うことが同じことであるというのですが、どうしてそんなことが言えるのか。まず自分のことを願い、次いで他人のことを願うのであって、二つは時間的に別のことではないかと思えるからです。


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願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり [「信巻を読む(2)」その5]

(5)願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり

横超の菩提心を明らかにするために『論註』から引かれます。

『論の註』にいはく、「王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生(往生を願う行者を上輩・中輩・下輩の三種に分ける)のなかに行に優劣(うれつ)ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心(仏になりたいと願う心)なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心(衆生利他の心)なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽(ひま)なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ぜんまたまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑにいふこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんとふがゆゑにと。住持楽とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて受楽なきなり。おほよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与(せよ)したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と。抄出

この文は『論註』下巻の「善巧摂化(菩薩が巧みに衆生を済度するという意)章」に出るもので、『浄土論』の「菩薩の巧方便回向とは、いはく、説ける礼拝等の五種の修行をもつて集むるところの一切の功徳善根は、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲するがゆゑに、一切衆生を摂取してともに同じくかの安楽仏国に生ぜんと作願するなり」という文を注釈しています。曇鸞はこの菩薩の回向発願心を無上菩提心として、それは願作仏心すなわちみずから仏になろうとする心でありながら、同時に度衆生心すなわち一切衆生を済度しようとする心であると述べます。願作仏心でありながら、それがそのまま度衆生心であるところに無上菩提心の本質があるということです。

その話に入る前にこのなかの最後の一文について一言。これは菩薩すなわち仏道修行者の回向発願心について述べられているのですから、普通に読みますと「おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与して、ともに仏道に向かふなり」となりますが、親鸞は例によってこれを「おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と如来を主語として読んでいます。


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よこさまに超えるとは [「信巻を読む(2)」その4]

(4)よこさまに超えるとは

この一つ前の文で、本願の信心について「たとへば阿伽陀(あかだ)(やく)のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり」と述べられていました。愚が毒であるのはもちろん、智もまた毒であるというのですが、これは世の普通の理に反すると言わなければなりません。われらは須らく愚の状態から智の状態へと一歩一歩進まなければならないと言われます。それが啓蒙すなわち(くら)き(蒙昧(もうまい))を(ひら)く(啓発する)ことで、そのことでよく生きることができるとされます。しかし本願の信心から言えば、われらの知は分別知であり、大いなる智すなわち仏智(本願)から見れば愚痴に他なりません。われらのは主客を分別し、自他を分別するものであり、仏の無分別智からすれば、囚われた知でしかありません。真実の信心は「よく智愚の毒を滅する」とはそういうことです。

これを「たてさま」と「よこさま」ということで言いますと、われらが愚から智へ進むことが「たてさま」であり、それに対して智愚そのものを超えるのが「よこさま」です。ニーチェの著作に「善悪の彼岸」というのがありますが、それをお借りしますと、「智愚の彼岸」に立つということです。智と愚が相剋する世界から、もう智愚の対立のない向こう岸へ超えるのです。それは「ほとけのいのち」を生きることに他なりませんが、しかしだからと言って「わたしのいのち」でなくなるわけではありません。これまで同様「わたしのいのち」を生きながら、したがって智愚の相剋を生きながら、同時に「ほとけのいのち」を生きるのです。そのとき智愚の毒は滅しています。

『大経』には「よこさまに五悪趣を()」とありましたが、それは五悪趣からどこか別の世界(西方十万億土)へ往くことではありません。五悪趣のただなかを生きながら、同時に五悪趣をよこさまに超えるのです。そのとき五悪趣は五悪趣のままでありながら、もはや五悪趣の毒は滅しています。れが「悪趣自然に閉じ、道に昇るに窮極(ぐうごく)なからんということです。また「玄義分」の「横に四流を超断せよ」という文も、四流すなわち煩悩の激流を断ち切ってしまうのではありません、四流のただなかにありながら、同時に四流をよこさまに超えているのです。そのとき四流の毒は滅しています。


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竪と横 [「信巻を読む(2)」その3]

(3)竪と横

ここで注目したいのは「竪と横」という表現です。自力を「竪」、他力を「横」と言い表す発想はどこから来ているのでしょう。

思いつくのは『大経』下巻に「かならず超絶して去(す)つることを得て安養国に往生して、〈横に〉五悪趣を截(き)り、悪趣自然に閉じ、道に昇るに窮極(ぐうごく)なからん」(かならずこの迷いの世界を超えて安楽国に往生し、横さまに五悪趣を断ち切って、もはや迷いの世界に戻ることなく、この上ない悟りに至ることができる)と述べられていること、また少し前に引用された『観経疏』「玄義分」に「ともに金剛の志を発して、〈横に〉四流(欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流、煩悩のこと)を超断せよ」とあることです。これらの表現から「よこさま」とは通常の理(ことわり)を超えることで、それに対する「たてさま」は世の普通のありようを指すことが分かります。

世の普通のありようとは、何をなすにも定められた手順をひとつずつ踏んでいくということで、それは階段を一段一段のぼるようなものですから「たてさま」と言えるでしょう。対する「よこさま」は、そうした手順や階段をひとっ跳びに超えてしまうということで、これは世のあるべき姿に背くことと言わなければなりません。字書で「横」を引きますと、横暴、横柄、横着、横領、横車など否定的なことばばかりが出てきます。そして「たてさま」に一歩一歩歩むのが自力のありようで、「よこさま」に時間を跳び越えるのが他力のありようです。われらが自力で何かをしようとしますと、そこにはおのずから定められた手順があり、それを「たてさま」に一つ一つクリアしていかなければなりません。それに対して他力とは、気がついたら不思議な力で「よこさま」に超えていたという経験です。

「たてさま」に進むことと「よこさま」に超えることの違いをもう少し考えつづけたいと思います。


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二双四重 [「信巻を読む(2)」その2]

(2)二双四重

さてこの文は菩提心を二双四重(このことばは存覚の注釈書『六要鈔』に由来します)という方式で分類していますので、まずこの親鸞独特の方式について述べておかなければなりません。二双とは二つの軸を設けることでで、その一つは「竪(自力)と横(他力)」の軸、もう一つは「超(頓、すぐさまということ)と出(漸、ゆっくりということ)」の軸で、この二つの軸を組み合わせることで「竪超」・「竪出」・「横超」・「横出」の四つ(四重)になります。ひと言で菩提心と言っても、この四種類の菩提心があるということです。

この文では「竪超」と「竪出」の違いには重きが置かれず、「権実・顕密・大小の教」すなわち聖道門の菩提心として一括りにされ、「歴劫迂回の菩提心」つまり長い道のりを経て菩提に至ろうとするもので、要するに自力の菩提心です。それに対するのが「横の菩提心」すなわち他力の菩提心ですが、それに「横出」と「横超」があるとされ、「横出」は「正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり」と言われます。これは自らさまざまな行を修めることによって往生を得ようとするもので、「横超」へ導くための方便とされます。そして真実の菩提心が「横超」であり、これこそ「願力回向の信楽」すなわち本願力によって与えられる真実の菩提心です。

ここで親鸞が言おうとしているのは、菩提心と言っても、自力の菩提心と他力の菩提心があるのだということで、このとき彼の頭に明恵の『摧邪輪』が浮んでいたのは間違いないでしょう。明恵はこの書物で法然の『選択集』を「菩提心を撥無している」として厳しく批判したのですが、親鸞はそれに応答していると考えられます。法然が否定したのは自力の菩提心であり、他力の菩提心こそが真実の菩提心であると述べているのだということです。それを理解できないのは「信不具足」であり「聞不具足」であると言わなければならないとやり返しているのです。


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菩提心について二種あり [「信巻を読む(2)」その1]

第1回 願作仏心は、すなはちこれ度衆生心

(1) 菩提心について二種あり

みなさん、こんにちは。今年の6月20日で中断していました「『教行信証』信巻を読む」を再開し、「信巻を読む(2)」として、つづけてまいりたいと思います。

ここまで長きにわたって三心一心問答(第十八願の至心・信楽・欲生は、みな如来回向の真実信心であり、天親の一心に他ならないという議論、これが信巻前半のメインです)が展開されてきましたが、そのなかで出てきた重要な論点についてさらに注釈が加えられていきます。その第一が「菩提心(仏のさとりを求め、衆生利他をめざす心)」についてです。先に欲生心に関わって「金剛の志」すなわちどんな状況に置かれても破壊されることのない菩提心について論じられましたが、それをここでもういちど主題としようということです。まず親鸞の自釈です。

しかるに菩提心について二種あり。一つには(しゅ)(自力の意)、二つには(おう)(他力の意)なり。また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実(権教すなわち方便の教えと、実教すなわち真実の教え)・顕密(顕教と密教)・大小(大乗と小乗)の教に明かせり。歴劫(りゃくこう)迂回(うえ)(長い時間をかけてまわり道すること)の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑(正行すなわち読誦、観察、礼拝、称名、讃嘆回向の五行と、雑行すなわちそれ以外の万善諸行)・定散(息慮凝(そくりょぎょう)(しん)の定善と廃悪修善の散善)、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。横竪の菩提心、その(ことば)一つにして、その心なりといへども、入真を正要(しょうよう)とす、真心を根本とす。(じゃ)(ぞう)(しゃく)(あやまり)とす、疑情を失とするなり。欣求浄刹(ごんぐじょうせつ)の道俗、ふかく信不具足の金言を了知し、永く聞不具足の邪心を離るべきなり。

さまざまなことばが出てきますので、できるだけ本文のなかに短い解説を加えましたが、最後の一文にある「信不具足」と「聞不具足」について一言しておきましょう。「信不具足」はすでに信楽釈のところで『涅槃経』からの引用文のなかに出てきましたが、それが指しているのは、「聞よりして生じて思より生ぜざる」こと、すなわちただ上っ面を聞いているだけで、心の奥に届いていないこと、そして「ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざる」こと、すなわち本願の信はすでに信を得た人(よきひと)を通じてしか得られないことに気づいていないということです。「聞不具足」はもう少し先で引用される『涅槃経』の文に出てきますが、教法の半ばを聞いて、全体を聞いていないこと、すなわち聖道門だけを聞いて、浄土門があることを知らないということです。


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