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明法房の往生 [親鸞の手紙を読む(その73)]

(2)明法房の往生

 この手紙には建長4年(1252年)2月24日の日付けがあり、親鸞80歳のときに書かれたものです。日付けの分かる手紙の中では『末燈鈔』第1通の建長3年に次いで古いものです。そしてその内容は第19通とほぼ重なり、一通は「奥郡、北の方」(常陸国の北の地方)の門弟たちに出され、これは「鹿嶋、行方(なめかた)、南の庄」(常陸国の南の地方)に出されたものと思われます。いわゆる「造悪無碍」の跳ね上がりに対する心に響く訓戒の手紙です。
 ここには明教房、明法房、ひらつかの入道、信見房という四人の名前が出てきます。まず明教房ですが、親鸞門弟の名簿によりますと、常陸の乗信房の門下とされます。乗信房は第5回で取り上げました『末燈鈔』第6通(「なによりも、こぞ・ことし」で始まる文応元年、1260年の手紙)が送られた人物ですが、その門下にあった明教房が「方々よりの御こゝろざしのものども」を託されて上京したようです。
 そして二人目の明法房は覚如の『御伝鈔』(親鸞の伝記)に取り上げられている人物で、もとは筑波山の修験者だったようですが、そのあたりを念仏教化していた親鸞に害心をいだき、つけねらっていました。しかし、なかなか思うようにいかず、ついに親鸞のお住まいを訪ねたところ、「上人左右(そう)なく出であひたまひけり。すなはち尊顔にむかひたてまつるに、害心たちまちに消滅して、あまつさへ後悔の涙禁じがたし」(『御伝鈔』)となり、そのまま親鸞の弟子となったという人です。その明法房が往生をとげられたことを喜んでいます。
 ひらつかの入道という人についてはよく分かりませんが、この人もめでたく往生されたことを喜んでいます。前回取り上げました第12通の末尾にも、有阿弥陀仏に「さだめてさきに往生しさふらはんずれば、浄土にてかならずかならずまちまいらせさふらふべし」と言っていましたが、手紙のなかの普通の話として「往生する」と言うときは、「いのち終わって浄土へ往く」という日常語の意味でつかわれています。信心のときに正定聚となることを往生すると言う親鸞も使い古されてきた意味で往生ということがあるのです。
 最後の信見房についてはまったく分からず、ただここで問題となっている「造悪無碍」という動きの核となっていた人物だろうと推測することができるだけです。

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