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こだまとしての称名 [『教行信証』「信巻」を読む(その151)]

(10)こだまとしての称名

それを考えるためには、信心とは聞名であることに立ち返る必要があります。「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」が南無阿弥陀仏の「こえ」としてわれらにやってくるのを聞受することが信心に他なりません。こうして本願がわれらの信心となるのですが、そのときわれらに何が起こるかということです。「その名号を聞きて、信心歓喜せん」と第十八願成就文にありますように、聞名=信心はおのずからわれらに歓喜をもたらします。これまで「わたしのいのち」を「わたし」が生きなければと歯を食いしばって生きてきたところに南無阿弥陀仏の「こえ」が届いて、「わたしのいのち」はそのままですでに「ほとけのいのち」に生かされていることが知らされたのです。これが歓喜とならないわけがありません。

そしてこの歓喜はわれらの心のなかに止まっていることができず、また「こえ」となって外に出ていくことになります。むこうからやってきた南無阿弥陀仏の「こえ」は、われらの心を慶びで震わせ、こだまのようにまた南無阿弥陀仏の「こえ」となって出ていくのです。これは、たとえば美しい虹が出ているのに気づいたとき、その喜びを自分一人のものにしておくことができず、おのずから周りにいる人たちに「ほら、あそこに虹が!」という「こえ」となって出ていくようなものです。南無阿弥陀仏の「こえ」が聞こえるということは、「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」がわれらにかけられていることに気づくことに他なりませんが、その気づきはわれらをしてまたその「本のねがい」を南無阿弥陀仏の「こえ」として周りの人たちに伝えさせる作用をするのです。このようにして本願名号は人から人へと次々に伝えられていくことになります。

これが「真実の信心はかならず名号を具す」ということですが、では「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」とはどういうことか。もう多言は無用でしょう、「信心を具せざる」称名とは、聞名のない称名であり、自力作善としての称名です。それには歓喜も安心もありません。


タグ:親鸞を読む
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