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6月5日(水) [はじめての親鸞(その159)]

 この世とあの世の接点である臨終こそ勝負のときです。
 この世でなすことはすべて往生のための準備であり、うまく準備できたかどうかは臨終において検証される訳です。首尾よく往生を果たせたか、それともまた六道に輪廻することになったのか(それは、死者の身近な人の夢枕に本人が現れ、今どこにいるかを報告することによって判定されたようです)、ここにみんなの目が注がれるのは自然の成り行きです。こうして慶滋保胤の『日本往生極楽記』をはじめ多くの往生伝(往生の様子を記録した伝記)が残されることになります。
 これが平安期の浄土教であったということを押さえておけば、鎌倉期に親鸞が成し遂げたことがくっきりと浮かび上がります。その違いをもっとも分かりやすく示したことばを上げておきます。親鸞が関東の弟子に宛てて書いた手紙の一節です。
 「阿弥陀仏のご来迎を待って往生するという考えの本質は、諸行往生、つまり善い行いをすることによって往生できるということにあります。それは自力の行者のために言われることです。また臨終が肝心であるという考えも、この諸行往生の立場の人に当てはまることです。いまだ真実の信心を得ていません。…真実の信心の人は、阿弥陀仏の光の中におさめとられ、もはや捨てられない(摂取不捨)のですから、すでに正定聚の位、つまり仏になることが定まった位にあるのです。ですから、臨終を待つことはありません、来迎をたのむこともありません。信心が定まった時、すでに往生が定まっているのです。来迎の儀式を待つ必要はありません」(『末燈鈔』第一通)。

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