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よきひとの仰せをかぶりて [『ふりむけば他力』(その26)]

(10)よきひとの仰せをかぶりて

 どうやら教化に二種類あるようです。一つは説得という教化、もう一つは証言という教化です。前者は教えの正しさを証明してみせて相手を説き伏せるもので、日蓮の折伏などはその典型でしょう。それに対して後者は自分がどのようにして教えに目覚めたかを人々に証言し、それを通して相手も目覚めてほしいと願うもので、親鸞が行ったのはこちらです。証言という教化がどのようなものであるのかを実況中継のように生き生きと伝えてくれるのが『歎異抄』の第2章です。
 親鸞が京都に戻ってからのことです、「十余箇国のさかひをこえて(常陸の国から京都まで十を超える国があります)、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ」弟子たちに親鸞はこう語りかけます、あなたがたは「ひとへに往生極楽のみちを問ひきかんがため」に京都まで来られたのでしょうが、しかしわたしが「念仏よりほかに往生のみちをも存知し、また法文等をもしりたるらん」と疑っておられるようでしたら、とんでもない誤りです。もしあなたがたがそういうものをお望みならば、「南都北嶺にもゆゆしき学生(すぐれた学者)たちおほく座(おわ)せられて候ふなれば、かのひとにもあひたてまつりて、往生の要よくよくきかるべき」です、と。
 そしてこう言うのです、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然です)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」と。「よきひとの仰せ」とは「念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべし」というものですが、これは「わたしは念仏して弥陀にたすけられました」という法然の「証言」と考えるべきです。だからあなた親鸞も「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」と勧めているのです。このように、法然が「わたしはこんなふうにして本願念仏の教えに目覚めることができました」と証言してくださったのを聞かせていただき、そのことばを通してわたし親鸞もまた本願念仏の教えに目覚めることができたのですと、その慶びを人々に語っているのです。
 ここに証言としての教化がどのようなものかがくっきりと示されています。親鸞は「よきひとの仰せ」を聞かせていただき、それをもとに自分の力で本願力を「知る」(ゲットする)ことができたのではありません、「よきひとの仰せ」を通して、そのなかから本願力に「気づかされた」(ゲットされた)のです。このようにして本願力の「気づき」は「よきひと」の証言を通して、人から人へと次々にリレーされていくということです。

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