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宿命論 [「親鸞とともに」その65]

(8)宿命論

あらためて旧統一教会の問題を思い起こしてみますと、この組織が人々を誘い込むために取る手立てとして、何ごとも「そうなるべくしてなっている」という語りがあります。何か不幸をかかえている人に近づき、「あなたがこの不幸に遭遇したのは、過去にそうなるべき元があるのです」と囁きかけるのです。しばしば持ちだされるのが「先祖の霊」で、何代か前の先祖の霊があなたの不幸のもとになっていると説いていくようです。この霊の話はあまりに荒唐無稽としても、こうした語りの前提となっているのが、どんな不幸も「そうなるべくしてなった」ものであるという一種の宿命論(運命論)であるということ、ここに注目したいと思います。

人がこの語りに簡単に乗ってしまうのは、われらのなかに「ものごとにはかならず原因がある」という観念があるからです。ここから何ごとも原因と結果のつながりのなかにあるとみなされ、不幸が起こったこともそのつながりのなかでのことと考えられるのです。そしてこの不幸は「起こるべくして起こった」必然であるということになり、かくして宿命論が生まれることになります。ここで考えておかなければならないのは、原因・結果の概念は、ある特定の出来事に対して特定の原因を見いだそうとする実利的なものであるということです。ところが、それを拡張して、何ごともかならず何らかの原因によって起こっているのだから、何が原因か分からなくても、すべて「起こるべくして起こったのだ」とするのは、原因・結果概念の濫用と言わなければなりません。宿命論というのは世界の出来事のすべてを神の視座から俯瞰していると言うべきです。

宿命論とよく似ているものに宿業論(宿縁論)があります。これも前に少し触れたことがありますが、あらためて考えておきましょう。われらが善をなし悪をなすのはみな宿業(過去の行為)によるということですが、これは一見、われらのなすことはすべて「そうなすべく定まっている」という宿命論と同じように思えます。しかしこの二つは似て非なるものです。


タグ:親鸞を読む
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