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『歎異抄』を読む(その57) ブログトップ

7月11日(水) [『歎異抄』を読む(その57)]

 「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮をいだくことをえざれ」ですと、「表にはいい子ぶって、裏で悪だくみをしていてはいけません」となりますが、「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、内に虚仮をいだけばなり」ですと、「表にいい子ぶってはいけません、裏で悪だくみをしているに決まっているからです」となります。 「仏の顔をしながら、サソリの心を持っていてはいけません」と「仏の顔なんかするんじゃありません、サソリの心を持っているのですから」。サソリの心を捨てることはできないと見極めることができるかどうかということです。
 親鸞という人は、自分の中の悪をじっと見つめていた人だと思います。それが「とても地獄は一定すみかぞかし」のことばです。オレはどうしようもない悪人だと観念した時に、「なむあみだぶ」の声が、「どうしようもない悪人のままで救われるのだよ」という声が身に沁みるのです。
 しかし、どうでしょう。オレはどうしようもない悪人だと思っても、それでも世の中にはもっとヒドイやつがいると感じてしまわないでしょうか。ナイフで次々と無差別に刺していったあんなヤツと一緒にして欲しくないと感じるものです。
 「どんな悪人も、そのままで救われる」ことを腹の底から納得するのは本当に難しい。とりわけナイフで刺された被害者の家族ともなれば、「あんなヤツは地獄におちろ」と思います。ぼくもその立場になれば、きっとそう思うと思います。その時、あんなヤツと自分との間に線を引いています。あんなヤツはもう極悪人としか言いようがないが、自分はそこまで悪くないと。

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