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中動ということ [「『証巻』を読む」その105]

(2)中動ということ

われらが往生を願い、われらがその願いを成就するか、それとも法蔵菩薩がわれらの往生を願い、法蔵菩薩がその願いを成就するか。われらが往生を願うのか、それともわれらの往生は法蔵菩薩から願われているのかと問うのは、「能動か受動か」という問いです。このようにどんなことも、それは能動かそれとも受動かと問うことにわれらは慣らされています。それはわれらのつかっていることばがそのような構造、すなわち「能動態かそれとも受動態か」という構造をしているからです。しかしはたして事がらそのものがそのような構造になっているでしょうか。そのことを考えさせられたのは国分功一郎氏の『中動態の世界』からでした。

その本によりますと、インド=ヨーロッパ語族における動詞の態(voice)は、もともと能動態と中動態であったのが、紀元前4世紀ごろに能動態と受動態に変化したといいます。以来、能動態と受動態という構図が定着し、その結果、われらはものごとを能動であるか、さもなければ受動という見方をするようになったというのです。能動・受動は「する・される」の対ですが、ではそれ以前の能動・中動はといいますと、動作の「そと・うち」という対です。それをぼく流に言い替えますと、「わたしがおこす・わたしにおこる」となります。すなわち能動は「わたしが」ある動作をおこすのに対して、中動は「わたしに」ある動作がおこるということです。

さて、われらが往生を願うか、それともわれらの往生は法蔵菩薩から願われているかというのは「する・される」の対(能動・受動)でものごとを考えていますが、それを「わたしが願いをおこすか、それともわたしに願いがおこるか」という対(能動・中動)で考えることができます。そうしますと、往生の願いは他の誰でもなく「わたしに」おこっていますが(その意味ではまぎれもなくわたしが往生を願っていますが)、しかし決して「わたしが」その願いをおこしているのではなく、法蔵菩薩がおこしてくださっていることになります(それが本願です)。法蔵菩薩がわれらの往生という願いをおこしてくださっているからこそ、われらに往生の願いがおこるのです。


タグ:親鸞を読む
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