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摂取してすてたまはず [『教行信証』精読2(その77)]

(8)摂取してすてたまはず

 宇宙のかなたからやってくるかすかな信号(本願名号)を傍受したとき何が起こるのでしょう。親鸞はこれまでの引用に出てきたことばから重要なものを四つ上げています。「歓喜地」と「摂取不捨」と「即時入必定」と「入正定聚之数」です。
 歓喜地は龍樹のところで詳しくみましたのでいいとしまして、次の摂取不捨に注目しましょう。ここでは善導のことば、「摂取してすてたまはず。かるがゆへに阿弥陀仏となづけたてまつる」が上げられます。正確には「ただ念仏の衆生をみそなはして、摂取して捨てたまはざるがゆゑに阿弥陀と名づけたてまつる」(『往生礼讃』)ですが、これは『観経』の「(弥陀の)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず」と『小経』の「かの仏の光明無量にして、十方の国をてらすに障礙するところなし。このゆゑに号して阿弥陀とす」をひとつに合わせてつくられたことばです。親鸞はこの文をもとに「十方微塵世界の、念仏の衆生をみそなはし、摂取してすてざれば、阿弥陀となづけたてまつる」と詠っています(『浄土和讃』)。
 摂取の摂(もとは攝)という文字は、辞書によりますと、「手で引き上げてもつ」という意味で、つまりは「とる」ということです(摂政とは帝の代わりに政を「とる」こと、あるいはその職を意味します)。これまでときどきゲットという言い方をしてきましたが、摂はまさにゲットすることで、ただ弥陀は手でゲットするのではなく、光明(と名号)でゲットするのです。親鸞は上の和讃の摂取に左訓して「摂はものの逃ぐるを追はへとるなり」と解説してくれますが、どんなに逃げ回ろうとしても、光明はそれを追いかけてゲットするというのです。だからこそ阿弥陀、すなわちアミターバ、無量の光とよぶのだといいます。無量の光に照らされないものはありません。
 さて弥陀の光明に摂取されることが、必定に入ることであり、正定聚の数に入ることに他なりません。必定も正定聚も「かならず仏となる身」ですが、それは言いかえれば、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままですでに「ほとけのいのち」であるということであり、弥陀の光明に摂取されるということは、そのことに気づかせてもらえることに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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