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論理のことば [正信偈と現代(その14)]

(3)論理のことば

 ここでもういちど親鸞のあの謎のようなことば、「弥陀仏は自然(じねん)のやう(様)をしらせんれう(料)なり」(『末燈鈔』第5通)を思い起こしたい。親鸞はこのことばで、大事なのは自然つまり「おのずからしからしめる」ということ、「救いは自力によるのではなく他力による」ということであって、阿弥陀仏とはそのことを伝わりやすくするための方便(料)にすぎないと言おうとしたのに違いありません。それはしかし裏返して言いますと、自然ということを語ろうとすると、阿弥陀仏という方便抜きには不可能だということです。阿弥陀仏は方便にすぎない、しかしそれは不可欠の方便だということです。法蔵菩薩はただの物語にすぎない、しかし必然的な物語であるということ。
 どうして自然=他力を語ろうとすると物語が必要となるのかと言いますと、現実の世界は自力にどっぷり浸かっているからです。
 そもそもぼくらが現実的にものごとを考えようとしますと論理に頼るしかありませんが、論理というものは隅から隅まで自力の原理に貫かれています。論理と言いますのは、理性がそれに則らなければならない法則ですが、それはあくまでぼくらがこの現実の世界に適応して生きていくためのものです。もっとも単純な論理法則として「Aであるか、さもなければAではない」というのがありますが、これは排中律と呼ばれ、たとえば「あそこにいる動物は犬か、さもなければ犬ではない、そのどちらかである」というようなことです。あまりに当たり前のことですが、ぼくらはこれを使って現実の世界に適応しているのです。空気がなければ一刻も生きていけないように、論理法則もそれがなければすぐさま死に脅かされます。
 現実の世界を生き抜くために論理を使っているということは、論理は自力の原理の上に成り立っているということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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