SSブログ
正信偈と現代(その88) ブログトップ

主客未分と主客分離 [正信偈と現代(その88)]

(7)主客未分と主客分離

 西田哲学に「主客未分」というキーワードがあります。デカルトにはじまる西洋の近代哲学は主客(主体と客体)の分離からスタートするのですが、西田幾多郎はそれに異を唱え、主客分離の手前に主客未分の経験があると主張したのです。
 例えば、うるわしい香りに思わずうっとりするとき、そこではまだ「わたし」と「香り」は分離せずひとつです。ところが「これは何の香りだろう?」となり、「どこからくるのか?」となったとき、そう問いかけている「わたし」と、問いかけられている「香り」とが分離します。ぼくらは普段、主客が分離した世界にどっぷり浸っていますが、でもその前に、あるいはその底に、主客未分の経験があることを忘れてはならないと西田は言うのです。
 誰かが真理の気づきのなかにあるとき、彼は真理そのものと、同じことですが世界と一体となっています。で、その気づきを「論理のことば」をもちいて語ろうとしますと、どうしようもない撞着に陥ってしまうのです。主客未分の経験を主客分離の「論理のことば」で語ろうとするからです。釈迦と同じように、龍樹はそのもどかしさを身に沁みて感じていたのではないでしょうか。そこから難行道と易行道の区別が説かれたのではないかと考えられます。
 「悉能摧破有無見(悉く能く有無の見を摧破せん)」までは、『中論』の龍樹ですが、「宣説大乗無上法、証歓喜地生安楽(大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜん)」以下は『十住毘婆沙論(じゅうじゅうびばしゃろん)』の龍樹です。龍樹のなかにこの二つの顔があることには戸惑わされ、そこから『十住毘婆沙論』は龍樹の作ではないという説も出てくるのですが、ここで注目したいのは、『中論』においては龍樹が「有無の見を〈摧破〉」したと言い、『十住毘婆沙論』においては龍樹が「大乗無上の法を〈宣説〉」したと言っていることです。
 一方は否定し、他方は肯定しているということ、ここに何か鍵が隠れているのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
正信偈と現代(その88) ブログトップ