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臨終の称念 [はじめての『尊号真像銘文』(その10)]

(10)臨終の称念

 親鸞は臨終よりも尋常の称念に目を向けなければならないと説くのですが、それは当時から臨終こそ勝負のときであるという通念があったことを物語っています。
 源信の『往生要集』には特に「臨終の行儀」が説かれ、それをもとに「二十五三昧会」(25人の仲間による念仏結社)がつくられて、めでたく往生できるよう臨終に備えていました。このように来生に浄土へ往生できるかどうかに関心が集まれば、今生と来生の接点である臨終に焦点があてられるのは必然です。そうした通念のもとは言うまでもなく『観無量寿経』にあります。「行者、いのち終わらんと欲する時、阿弥陀仏および観世音・大勢至は、もろもろの眷属とともに、金の蓮華をもち、五百の化仏を化作して、この人を来たり迎えたもう」といった描写が繰り返され、臨終の来迎という観念が人々のこころにしっかり植えつけられていきました。
 しかし親鸞ははっきり言います、「来迎は諸行往生にあり。自力の行者なるがゆへに。臨終といふことは諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆへなり。…真実信心の行人は、摂取不捨のゆへに正定聚のくらゐに住す。このゆへに、臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心のさだまるとき往生またさだまるなり。来迎の儀式をまたず」と(『末燈鈔』第1通)。ここではこう言われています、「如来より御ちかひをたまはりぬるには、尋常の時節をとりて、臨終の称念をまつべからず。ただ如来の至心信楽をふかくたのむべしと也。この真実信心をえむとき、摂取不捨の心光にいりぬれば、正定聚のくらゐにさだまるとみえたり」と。
 臨終のときが往生のときではなく、信心のときこそ往生のときであるということ、ここに親鸞浄土教の核心があります。往生とは臨終の瞬間(点)のことではありません、信心のときにはじまり臨終のときまでつづく時間(線)です。ここで「摂取不捨の心光にいる」と言われ、「正定聚のくらゐにさだまる」と言われているのは、往生の旅がはじまるということに他なりません。

タグ:親鸞を読む
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