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『教行信証』精読2(その194) ブログトップ

本文2 [『教行信証』精読2(その194)]

(4)本文2

 道綽讃の後半です。

 三不三信1のをしへ慇懃(おんごん)にして、像末法滅2おなじく悲引す。一生悪を造れども、弘誓にまうあひぬれば、安養界にいたりて、妙果を証せしむと。(三不三信誨慇懃、像末法滅同悲引、一生造悪値弘誓、至安養界証妙果)
 
 注1 三不信と三信。真実ではない三つの信心と真実の三つの信心。三つの真実の信心とは淳心(まじりけがない)、一心(ふたごころがない)、相続心(ふらふらしない)。
 注2 像法(教と行はあるが証がない時代)と末法(教しかない時代)と法滅(教も消滅する時代)。

 (現代語訳) 道綽禅師は三不三信の教えを丁寧に説かれ、像法の時代、末法の時代、そして法滅の時代にあってもこの教えは同じように人びとを導いてくれると説いて下さいました。またこのように言われます、死ぬまで悪を造り続けても、弘誓に遇うことができさえすれば、そのまま安養界に入ることができ、かならずや涅槃という妙果をえることができるのです、と。

 三不三信というのは曇鸞が論註で説いているもので、道綽はそれを安楽集に引用しているのです。
 曇鸞は五念門のなかの「讃嘆(称名)」を注釈するなかで、こう言います、「かの無碍光如来の名号、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」と。ところが「称名憶念することあれども、しかも無明なを存してしかも所願をみてざるはいかん」とみずから問い、それに対して「実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによる」と答えてこの三不三信を持ち出すのです。称名憶念により無明が破られ、われらの願いが満たされるはずなのに、そうならないことがあるのは、その信心が真実ではなく、不淳(まじりけがあり)、不一(ふたごころがあり)、不相続(ふらふらしている)であるからだということです。

タグ:親鸞を読む
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