SSブログ
「親鸞とともに」その8 ブログトップ

「何のために生きる」 [「親鸞とともに」その8]

(8)「何のために生きる」

「わたし」は仮説されたものにすぎないのか、それとも「わたし」は主宰者として生きることを取り仕切っているのかによって、「生きる意味」の受けとめ方が大きく異なってきます。仏教は「わたし」は仮説されたものであるとし、デカルトは「わたし」は主体として世界と対峙しているという立場を取ります。そこで、順序をかえて、まずデカルトの立場からして「生きる意味」を問うとはどういうことかを考えてみましょう。「生きる意味」が問われるとき、この立場で考えるのが普通だからです、「わたし」という主体がこの世界の中で「生きる意味」は何だろうと。

そのとき「生きる意味」ということばには大きく二つの意味があります。一つは「生きる目的」で、もう一つは「生きる理由」です。「生きる意味は何か」という問いは「何のために生きるか」と言い替えられますし、また「生きることにどんな理由があるか」と言い替えることもできます。一つ目の「生きる目的」、「何のために生きるか」から考えましょう。われらはいつも「何かのために」生きています。さまざまな目標を立て、それに向かって行動を起こす、これが日々の生活を生きるということです。そして日々の「何かのために」が突き詰められ、最終的な目的は何かとなったときに、「何のために生きるか」という問いが浮上してきます。

しかしこの「何のために生きるか」という問いは、いつでも誰にでもおこるものではありません。日々の「何かのために」がうまくまわっているときには、この問いがおこることはまずありません。はじめに上げた趣旨文に「人は、躓き壁に突き当たって生まれた意味や生きる意味を考える」とありましたように、日々の暮らしのなかで何か大きな障害が立ちはだかったようなときに、「何のために生きているのか」という重い問いが浮上してきます。立てた目標が何らかの障害にぶつかり実現できなくなったばかりではなく、むしろ想像もしていなかったような窮地に立たされることになったとき、この問いが立ち上がってくるのです。

そんなとき、何か新たな目標を立てて、それに向かって生きていこうと思えるか、それとももはや生きる気力がなくなってその場にくずおれるかとなりますが、いずれにせよ、「生きる意味(目的)」は「わたし」が見いだし、「わたし」が立てるものであると考えられています。


タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その8 ブログトップ