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死なんずるやらんと [『歎異抄』ふたたび(その85)]

(6)死なんずるやらんと


第9章の後半です。


 また浄土へいそぎまゐりたきこころのなくて、いささか所労(病気)のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆることも、煩悩の所為なり。久遠劫よりいままで流転せる苦悩の旧里はすてがたく、いまだ生れざる安養浄土はこひしからず候ふこと、まことによくよく煩悩の興盛(こうじょう、つよく盛ん)に候ふにこそ。なごりをしくおもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。いそぎまゐりたきこころなきものを、ことにあはれみたまふなり。これにつけてこそ、いよいよ大悲大願はたのもしく、往生は決定と存じ候へ。踊躍歓喜のこころもあり、いそぎ浄土へもまゐりたく候はんには、煩悩のなきやらんと、あやしく(疑わしく)候ひなましと云々。


 唯円の「いそぎ浄土へまゐりたきこころの候はぬは、いかにと候ふべきことにて候ふやらん」という不審の告白を受けて親鸞が答えているところですが、ここで「浄土にまゐる」つまり「往生する」というのは、死ぬという意味でつかわれています。往生ということばに注意が必要なのは、ごく日常的な意味でつかわれているときと、浄土の真実の教えを説くときにつかわれるのとでは異なるつかい方がされるということです。現代もそうですが、日常語としての往生は死ぬことを意味します、「あの人もついに往生されました」とか「大往生でした」などと。しかし真宗の教えのことばとして厳密につかうときは本願に遇うことができ正定聚不退となることを指すことはこれまで縷々述べてきました。


で、唯円が言うのは、信心をえて念仏を申す身になったのだから、いつ死んでもいいと思えてもいいはずなのに、実際は死ぬことを怖れている自分がいるということです。これを唯円は、先の「本願に遇えたよろこびのこころが疎かになっている」こととともに、人前でなかなか言えない恥ずかしいことと受けとめています。それを思い切って親鸞に打ち明けたのですが、返ってきた答えは、わたしも「いささか所労のこともあれば、死なんずるやらんとこころぼそくおぼゆる」というものでした。そのときの唯円の驚きとそして嬉しさはいかばかりだったでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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