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不生ということ [『ふりむけば他力』(その94)]

(3)不生ということ

 われらにとって真っ先に問題として浮上してくるのは、龍樹の八不と縁起の法との関係です。
 龍樹は「戯論の消滅というめでたい縁起のことわり」と言いますが、戯論の消滅とは八不ということですから、八不がそのまま縁起のことわりであるということになります。しかしこれまで見てきましたように、縁起のことわりとは「これあるによりてかれあり、これ生ずるによりてかれ生ず」ということですから、何ものかが生じることは当然とされているのではないのでしょうか。縁起とは「すべてのものは他のものとのつながりの中にあって、それだけとして自立するものはない」ということであり、「これ生ず」は「かれ生ず」と切り離すことができないということですから、決して何ものかが生ずること自体を否定しているのではありません。ところが八不では「何ものも生ずることはない(不生)」と言います。
 さてこれをどう考えるべきでしょう。これからの論点を先取りするかたちで言っておきますと、龍樹が言わんとしていることは、「何ものかが生じる」ように見えるのは、われらのことばの構造(文法)がそうさせているにすぎないのに、実際に「何ものかが生じる」と思ってしまうということです。あるものが生じるということは(それが無から生じるのでなければ)、「同一のもの」が「時間のなかである状態から別の状態に変わる」ということに他なりませんが、それはわれらのことばの構造が「同一の主語」に「さまざまに変わる述語」がつくというかたちになっていることから、「何ものかが生じる」ように思わせているだけであるということです。にもかかわらず実際に何ものかが生じてくると考えると理に合わないことになるというのが龍樹の論点です。
 こんな文を考えてみましょう、「畠のスイカがひと月前には野球のボール位の大きさであったのに、今やバレーボール大になった」。これは「あるスイカがひと月前には野球のボール位の大きさであった」という文と「そのスイカが今やバレーボール大になった」という文に分解できます。この二つの文は「あるスイカ」という〈同じ主語〉と、「ひと月前には野球のボール位の大きさしかなかった」及び「今やバレーボール大になった」という二つの〈別の述語〉からなっていて、この文の構造が「野球のボール位の大きさのスイカからバレーボール大のスイカが生まれてきた」という見方を生み出す元になっています。このようにことばの構造がそのような捉え方をさせているだけなのに、戯論は実際のありようがそのようになっていると主張するのですが、さてしかし「野球のボール位のスイカ」と「バレーボール大のスイカ」は「まったく別のスイカ」ではないか、それを「同じスイカ」であるというのはどうにも理に合わないではないかと龍樹は言うのです。

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