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本願力のはたらき [「『証巻』を読む」その53]

(2)本願力のはたらき

ご覧の通り、ここでは阿弥陀仏を讃える八句(仏八種荘厳)をまとめて、それらがどのようなつながりになっているのかを整理しています。ここは仏の荘厳を説く最後のところに当たり、このあと菩薩の荘厳に移っていくつなぎをしている部分です。いまは菩薩の還相のはたらきを説いているのですから、この部分は省略してもいいように思われますが、すぐ前に引用された部分(先回の最後の文)が阿弥陀仏のはたらき(不虚作住持功徳)を説くところに当たりますので、その関係でここも省かずに引いたのだろうと思われます。いや、もっと積極的に解釈して、菩薩の還相のはたらきはみな阿弥陀仏の力によるものであることを示唆していると考えるべきでしょう。

先回の最後に「七地沈空の難」が出てきました。自力で菩薩道を歩む行者は七地に至って大きな試練にあうということで、「一切は空である」という大覚をえますと、「もうこれでよし」と歩みを止めてしまい、衆生教化という還相のはたらきを捨ててしまう危険があるということでした。ところが弥陀の本願に遇うことにより往生できた行者はそんなことはなく、初地の菩薩も「畢竟じて」上地の菩薩と等しく、一切衆生を教化して仏道に向かえしむることができると言われていました。それはひとえに本願他力のはたらきによるのであり、本願他力により往生できたように、本願力回向により還相のはたらきをすることができるのです。

往相だけでなく、還相もまた本願力のはたらきであるということをあらためて考えておきましょう。還相とは「一切衆生を教化して、ともに仏道にむかへしむる」ことと言われますが、しかしわれらにできるのは「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしめん」と願うことであり、自分が本願に遇うことができたように、一切の衆生がともに本願に遇えるよう願い、どれほどささやかでも自分にできることをするだけです。そしてわれらにそんなはたらきができるのは、それに先立って弥陀が「一切の衆生を教化して、ともに仏道にむかへしむる」よう願ってくださっているからであるということ、これが還相もまた本願力のはたらきであるという意味です。


タグ:親鸞を読む
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