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5月10日(火) [矛盾について(その280)]

 「つながり」を「見る」のと、それを「感じる」のと。
 「つながり」を「見る」ときは、何と何がつながっているのかを見るとともに、それはどのような「つながり」かを見なければなりません。「つながり」にもいろいろあるからです。太郎と次郎がつながるからには、そこに何らかの力が働いているはずですが、それはどんな力か。血縁か地縁か。いやいや、そんなものではなく、友情か、愛か、それとも利害だろうか、というように。しかし「つながり」を「感じる」ときは、ただそこに何とも言えない温かさを感じるだけで、それがどのようなつながりかを詮索することはありません。
 どうして「見る」ときは、それがどのようなつながりかを詮索するのに、「感じる」ときは、ただつながりの中にたゆたうだけなのでしょう。
 「つながり」を見るとき、そこには何らかの目的があり、次に何をするべきかを考えようとしています。だからこそ、ただ何がつながっているかを見るだけでは不十分で、それはどのような「つながり」であるかを知らなければなりません。それは友情にもとづく「つながり」なのか、それとも利害にもとづく「つながり」なのかでは大違いです。
 一方、「つながり」を「感じる」ときはどうでしょう。次に何をすべきかを考えるために何かを「見る」ことはあっても、そのために何かを「感じる」ということはありません。そもそも感じる、感じないはこちらの意向で決めるわけにはいきません。ですから「つながり」を「感じる」ときは、ただ感じるだけで、それがどのような「つながり」かなどと詮索するはずがありません。そんな気が起こるときは、すでに「感じる」モードから「見る」モードに切り替わっているのです。

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