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無分別智と分別知 [「『証巻』を読む」その101]

(8)無分別智と分別知

ところがあるとき「ほとけのいのち」に遇うことができますと、それで「わたしのいのち」でなくなるわけではありませんが、「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに目覚めます。一つの結び目である点ではこれまでと何の違いもありませんが、でもそれは重々無尽の網のなかの一つの結び目であることに気づいています。依然として「わたしのいのち」を生きていますから、分別知をもって生きるのはこれまでと変わりませんが、そしてまた自他相剋を生きることには何の変化もありませんが、それと同時に無分別智のなかにあり、したがってまた自他一如を生きていることに気づいています。必死に分別知をはたらかせながら、それがすべて無分別智のはたらきの上のことであると気づいています。

さて問題は「ほとけのいのち」すなわち無分別智に気づくことはどのようにしておこるのかということです。

「ほとけのいのち」の気づきは「わたしのいのち」〈に〉起こりますが、しかし「わたしのいのち」〈が〉起こすことはできません。その気づきは「ほとけのいのち」からやってきます。それは分別知から無分別智への通路はなく、ただ無分別智から分別知への通路が拓かれているということに他なりません。これがよく言われる「賜りたる信心」ということです。信心とは「ほとけのいのち」の気づき、無分別智の気づきのことですが、それは「こちらから」起こすことはできず、ただ「むこうから」やってくるしかありません。そのことを「賜る」と表現しているのです。

ここに他力の原義がありますが、他力を言い表そうとしますと「阿弥陀仏から賜る」というように擬人化に頼ることになります。親鸞はそれについてこう言っています、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料(手立て)なり」(『親鸞聖人御消息』第14通、いわゆる「自然法爾章」)と。この「自然」は「他力」の意味ですから、弥陀仏という人格的な表象をもちいるのは、あくまで他力を言い表すためであると言っているのです。


タグ:親鸞を読む
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