SSブログ
『ふりむけば他力』(その105) ブログトップ

物語を信じるなんて [『ふりむけば他力』(その105)]

              第9章 物語と他力

(1)物語を信じるなんて

 この間のことですが、こんなことがありました。ぼくの親鸞講座を受けてくださっている方が、「正信偈」の一節に「釈迦如来、楞伽山(りょうがせん)にして、衆のために告命したまはく、南天竺に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見を摧破(さいは)せん」とあることについて、これはどの経典に出ているのかと質問され、ぼくが「『楞伽経』に書かれているとのことですが、それもまた伝承でしょう」と答えますと、「そんな伝承にもとづいて教えを説いていいものだろうか」と強い不信感を表明されました。この不信感は物語に向けられています。「仏教が物語なんて」という感覚です。
 さてしかし、いまさら言うまでもないことですが、本願他力の教えはそもそもからして物語にもとづいています。それは「法蔵菩薩因位のとき(果位としての仏になる前、という意味)、世自在王仏のみもとにありて云々」(親鸞「正信偈」)という説き方からして明らかなように、「法蔵菩薩の物語」としてはじまるわけです。先ほどの不信感を表明された方は浄土の教えについてしばしば「霧のなかにあるような」という思いを吐露されますが、それはこの「物語を信じる」という一点に関わっていると思われます。そしてここには事実が「ほんとう」で価値があり、物語は「にせもの」で無価値であるという感覚が潜んでいます。この骨の髄まで染み込んだ感覚から自由になるために、これ以上に「ほんとう」のことはないと思われるわれらの日常の営みが、実は物語の上に成り立っていることを考えてみたいと思います。
 われらは「これは〈わがもの〉である」と、何の躊躇いもなく、何の疑問もなく、あっけらかんと言いあっています。
 しかしそのことに真正面から疑問をぶつけた人がいます、これはそれほど当たり前のことなのだろうか、と。ジャン・ジャック・ルソーです。ぼくは若いころ彼の『人間不平等起源論』を読んだとき、眼からうろこが落ちる思いがしました。その一節を上げておきましょう。「ある土地に囲いをして『これはおれのものだ』と言うことを思いつき、人々がそれを信ずるほど単純なのを見いだした最初の人間が、政治社会の真の創立者であった。杭を引き抜き、あるいは溝を埋めながら、『こんな詐欺師の言うことを聞くのは用心したまえ。産物が万人のものであり、土地がだれのものでもないということを忘れるならば、君たちは破滅なのだ!』と同胞たちに向かって叫んだ人があったとしたら、その人はいかに多くの犯罪と戦争と殺人と、またいかに多くの悲惨と恐怖とを、人類から取り除いてやれたことだろう」(『世界の名著』)。

nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『ふりむけば他力』(その105) ブログトップ