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有我と無我 [『ふりむけば他力』(その98)]

(7)有我と無我

 龍樹はつづいてこう言います、「内面的にも外面的にも〈これはわれのものである〉とか〈これはわれである〉とかいう観念の滅びたときに執着はとどめられ、それが滅びたことから生が滅びることになる」と。そしてさらに「業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる」と。これまでの流れから考えますと、ここで「業と煩悩とが滅びてなくなる」というのは、業や煩悩をそれ自体としてあるもの(これを龍樹は自性と言います)と見て囚われることがなくなるという意味に違いありません。すぐ前で「われ」や「わがもの」の観念から離れることはありえないと説かれたのですから、業や煩悩そのものがなくなることはありません。
 そして「業と煩悩とは分別思考から起こる」と言われますのも、業や煩悩を自性として見ることが分別思考であるという意味に他なりません。そしてこの分別思考とか戯論と呼ばれるのは、「われ」や「わがもの」の観念はただことばとして仮構(仮説)されたものにすぎないのに、それが実在するかのように捉えることを指しています。かくして龍樹はこう言うのです、「もろもろのブッダは〈我(アートマン)が有る〉と仮説し、〈無我(アナートマン)である〉とも説き、また〈アートマンなるものは無く、無我なるものもない〉とも説いた」と。注釈家はこの文章の解釈に困惑し、中村元氏はなんと「中観派(龍樹の学派です)には〈定説〉というものが無いのである」と言います(前掲書)。
 しかし龍樹の論は一貫しています。まず「われはある」というのは仮説(ことばとして仮構されたもの)にすぎず、「実体としてのわれはない」のです。しかしわれらはそのことに気づいても「われ」という観念から離れては生きていくことができませんから(無我の世界に入り込むことはできませんから)、「無我なるものもない」のです。かくして有我でもなく無我でもないということになります。親鸞が「正信偈」において龍樹は「有無の見を摧破せん」と言っているのはそのことで、「われはある」とする有見も「われはない」とする無見も打ち砕いたというのです。有見が囚われであるのは言うまでもありませんが、しかし同時に無見も囚われであることを忘れてはならないということです。

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