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金剛の志 [『教行信証』「信巻」を読む(その146)]

(5)金剛の志

「金剛のごとし」ということに関わって、さらに善導『観経疏』から三つの文が引かれます。

『観経義』に、「道俗時衆等、おのおの無上の心(菩提心あるいは欲生心)を発せども、生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。ともに金剛の志を発して、横に四流(四暴流のこと。欲暴流・有暴流・見暴流・無明暴流。煩悩をさす)を超断せよ。まさしく金剛心を受けて、一念(信の一念)に相応してのち、果、涅槃を得んひと(その果として涅槃を得る)」といへり。抄要

またいはく、「真心徹倒(てっとう)して苦の娑婆を厭ひ、楽の無為を欣ひて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾(きょうに、かるがると)としてすなはちかなふべからず。苦悩の娑婆、輙然(ちょうねん、たちまちに)として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親(まのあた)り慈尊(慈悲ある世尊)に従ひたてまつらずは、なんぞよくこの長き歎きをまぬかれん」と。

またいはく、「金剛といふは、すなはちこれ無漏(漏は煩悩。無漏は煩悩のけがれのないこと)の体なり」と。以上

一つ目の文は「玄義分」のはじめ、したがって『観経疏』全体のはじめに出てきますが、かなり自由に引用されています。

最初の一文、「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし」は、通常は「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せ」と切り、そして「生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし」とつづけて読むところですが、親鸞としては、われらに自ら無上の菩提心を発す力はないとして、「発せども」と読んで(聞いて)いるのです。われらが自前の菩提心を発したとしても、ほんとうに生死に厭い、仏法を欣うことなどできはしないというのです。

そしてそれにつづく「ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ」の「金剛の志」とは如来回向の(如来から賜った)菩提心をさすと見ています。自力の菩提心ではなく他力の菩提心によってはじめて生死の迷いを脱することができるということです。因みに親鸞はこのすぐ後で菩提心を論題として取り上げ(菩提心釈)、菩提心に竪すなわち自力の菩提心と横すなわち他力の菩提心があることを詳しく述べます。


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