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縁起の意味 [『ふりむけば他力』(その29)]

(2)縁起の意味

 ガンジスの河水にはさまざまな水が含まれていますが、それらにはみな源流部の水が入っているからこそ、それ全体をガンジス河と呼ぶことができるわけです。同じように現在の仏教には南伝仏教系の上座部仏教(テーラワーダ仏教、大乗の側から小乗仏教と呼ばれます)と北伝仏教系の大乗仏教、そして大乗のなかでも聖道門仏教と浄土門仏教などさまざまな流れがありますが、それらはみな釈迦の教説を汲んでいますから、それ全体を仏教と呼ぶことができるのです。
 さてしかしそうは言ったものの、釈迦の教説としての「縁起」や「無我」と、浄土の教えで説かれる「本願」や「他力」とはおよそ似ても似つかない顔つきをしています。実際において浄土門諸派(日本の宗派としては浄土宗、浄土真宗、時宗など)で縁起や無我の教えが説かれることはほとんどないでしょう。ですから縁起や無我と本願他力とはどこでどうつながるのか、まったく別ものではないのかという疑いが出てくるのももっともと言わなければなりません。
 そこで本章において、両者が別ものであるどころか、実に一つであることを見ておこうというわけです。それは初期仏教と浄土門仏教とのつながりを確認することになるにとどまらず、縁起・無我と本願他力が本質的に同じであることを見ることで、双方のほんとうの姿がより明確になるからです。まずは縁起ということばの元々の意味をはっきりさせておきましょう。といいますのは、第1章において「我慢」や「頑張る」の例で見ましたように、仏教語が日常語をしてつかわれるようになりますと、もともとの意味とは大きくズレをみせるようになり、真反対の意味になることもあるからです。縁起もまた御多分にもれず、日常語としてつかわれるときには、「物事の起こりや寺社の成立の由来、ex信貴山縁起」、あるいは「ものごとの吉凶の前兆、ex縁起が悪い」という意味になります。
 しかし言うまでもなくこのことばの元は仏教語であり、サンスクリットのpratitya-samutpada(プラティーティヤ・サムトパーダ)が意訳されて「因縁生起(縁に因り生起する)」とされ、それが略されて「縁起」となったものです。字のごとく「あらゆることがらは他との関係が縁となって生起する」ということを意味します。このように言えば、どうということもなく、ごく当たり前のことを言っているだけのような印象を与えるかもしれませんが、あにはからんや、これは釈迦のすべての教説の根幹をなし、驚くほど深くかつ長い射程をもっています。

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