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「『正信偈』ふたたび」その57 ブログトップ

偈文3 [「『正信偈』ふたたび」その57]

(7)偈文3

さて次は龍樹讃の後半です。

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽

憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩

難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽(しんぎょう)せしむ。

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。

ただよくつねに如来の号(みな)を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。

龍樹大士は『十住毘婆沙論』においてこう説いています、「釈迦如来は、陸路を歩行するのは困難で苦しく、水路を乗船するのは易しく楽しいものと教えてくださいました。

阿弥陀如来の本願がこころにありさえすれば、おのずからにして、そのまま正定聚不退の位に入るのです。

ただただいつも南無阿弥陀仏を口にして、弥陀の本願のご恩を感謝せずにはおれません」と。

最初の二句「顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽(難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ)」のもとは、『十住毘婆沙論』「易行品」の「陸道の歩行(ぶぎょう)はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致(あゆいおっち、不退転のこと)に至るものあり」という一節です。この「陸道の歩行」と「水道の乗船」という譬えは分かりやすく、印象に残りますが、ただ注意しなければならないことがあります。

龍樹は自力と他力ということばをつかうわけではありませんが(これを仏教に導入したのは後の曇鸞です)、しかし「陸道の歩行」は苦しく、「水道の乗船」は楽しいと言うとき無意識のうちにこの自力と他力の対があったのは間違いないでしょう。すなわち前者は自力であるのに対して後者は他力であるということですが、さて「陸道の歩行」が自力であることは問題ありませんが、「水道の乗船」が他力を意味するとしますと、それは「これから」のことではなく「もうすでに」のことでなければなりません。もし船に乗るのが「これから」でしたら、それは「陸道の歩行」と本質的には何も変わらず、あるところへ行くのに陸道と水道のどちらが「より」易しいかということにすぎません。


タグ:親鸞を読む
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