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「知る」と「信じる」 [『歎異抄』ふたたび(その27)]

(4)「知る」と「信じる」

 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」ということばは、「知る」ことは「信じる」こととはおよそ別のことであると言っています。わたし親鸞はもちろん本願念仏を「信じています」が、しかし本願念仏が何をもたらすかは「知りません」と言っているのです。
 何かを「知る」というのは、つきつめれば、それがわれらに役立つかどうかを「知る」ということです。何であれ、われらがそれを知ろうとするのは、それがわれらにとってよきものであるか、わろきものであるかをはっきりさせるためです。本願念仏についても同じで、それを「知る」のは何のためかといいますと、それがわれらに幸せをもたらしてくれるか、それとも不幸をもたらすのかを明らかにするためです。
 ここから了解できるのは、「知る」ことは「これから」に関わるということです。
 「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん」とは、念仏をすることで「これから」どうなるかということであり、それを「総じてもつて存知せざるなり」と言っているのです。あなた方は、いま念仏すれば「これから」どうなるのだろう、よき結果がまっているのだろうか、それともわろき結果に至るのだろうか、それを知りたいと思っているのでしょうが、わたし親鸞はそんなことは知らないと言うのです。さらには「念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」と言います。
 何よりも、本願念仏についてそれが「これから」どんな結果をもたらすかを知ろうとするのは、本願念仏を自分たちのために利用しようとしていることになります。本願念仏を自分たちの幸せのための手段として使おうとしているということです。そもそも何かを「知る」というのは、それが自分たちのために利用できるかどうかを「知る」ことに他ならないのです。

タグ:親鸞を読む
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