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内にあって、かつ外にある [「親鸞とともに」その75]

(7)内にあって、かつ外にある

「わたしのいのち」の生まれ故郷は「ほとけのいのち」だと言いましたが(3)、いのちの無尽のつながりである「ほとけのいのち」のなかから新しく「わたしのいのち」が生まれてきたとしますと、その「わたしのいのち」の深層意識のなかに自分の生まれ故郷である「ほとけのいのち」が潜んでいると考えることはできないでしょうか。いまの遺伝子科学の知見でいいますと、「わたしのいのち」のDNAのなかに「ほとけのいのち」のことが書きこまれているということです。そのように考えることで、先の問いである「わたしの願い」と「ほとけの願い」(本願)の関係についてよりはっきりと答えることができるようになります。

「わたしのいのち」はそれぞれの戸籍をもっていることに応じて、「わたしの願い」もそれぞれ別々となりますが、「わたしのいのち」はみな「ほとけのいのち」を本籍としていることからしますと、「わたしの願い」の深層には共通の「ほとけの願い」がひっそりと息づいているということになります。普段は自分のなかに「ほとけの願い」があることを意識することはありませんが、何かの折にふと姿をあらわし、そして他人のことに責任を感じてしまうのです。さてしかし責任を感じるとは言え、その責任を自分の力で果たすことなど到底できることではありません。自分のことだけでももてあましているのに、あらゆる責任を自分一人で担うことなどできるはずがありません。これは「わたしの願い」は「ほとけの願い」に代わってそのはたらきをすることができないということです。

このように「わたしのいのち」は所詮「有量のいのち」としての限界のなかにあることに気づかされるのですが、そのとき同時に「有量のいのち」のままで「無量のいのち」に生かされていることに思い至ります。そしてまた「わたしの願い」も「ほとけの願い」のなかに包まれていることに思い至ります。先ほどは「わたしの願い」の奥底に「ほとけの願い」がひっそりと息づいていると言ったのですが、今度は「わたしの願い」は「ほとけの願い」に包まれていることに思い至るのです。「ほとけの願い」は「わたしの願い」の内にありながら、同時に、その外にあるという、「内在かつ超越」の関係にあることが分かります。


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美のイデア [「親鸞とともに」その74]

(6)美のイデア

一方では他人のことに責任を感じることはないと思いながら、でも現実に責任を感じてしまう自分がいるということ、ここに思いを潜めてみましょう。他人のことに責任はないと思うのは、各人はそれぞれ自立していると考えられているからです。自分の子どものことはその責任を負わなければならないのは、子どもはまだ自立しているとは言えないからです。このように「わたしのいのち」は「わたし」が自分で裁量しているという前提で社会は動いていて、法律も政治も経済もみなこの前提の上に構築されています。われらの意識の表層は「わたし」の自立という前提の上に成り立っていますから、他人のことに責任を感じることはないと思うのです。

でもその一方で現に責任を感じてしまう自分がいるのはなぜかといいますと、すでに述べてきましたように、「わたしのいのち」は各自がそれとして自立しているのではなく、他のいのちたちと縦横無尽につながりあっているのであり、その無尽のつながりによってはじめて「わたしのいのち」が成り立っているからです。しかしそのことは意識の深層に沈んでいますから、普段はそんなことを意識せずに暮らしています。ところが何かの折にふれてこの「つながりの感覚」が蘇り、見ず知らずの人のことに責任を感じてしまうのです。これが、何で責任を感じなければならないんだと思いながら、でも感じざるをえない理由です。

思い出すことがあります。プラトンの「イデア論」です。プラトンは「美しいとは何か」を誰かから教えてもらった覚えはないのに、何かを見たときにどうして「ああ、美しい」と感嘆するのかと問い、それにこう答えます。われらはこの世に生まれてくる前に「美のイデア(idea、原型)」を見ていたのだが、この世に生まれたときにそのことをすっかり忘れてしまったのだと。ところが何か美しいものに出あったとき、ふと「美のイデア」を想い起こし、それと照らし合わせて「ああ、美しい」という感嘆の声が出るのだと言うのです。神話的な説明と言わなければなりませんが、しかし的をついているのではないでしょうか。


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責任ということ [「親鸞とともに」その73]

(5)責任ということ

ここで責任ということを考えたいと思います。自分がしたことに対して責任を負うのは当たり前ですが、さて他人のしたことに責任はあるでしょうか。自分の保護監督下にある子どものしたことについては、その責任を負わなければならないでしょうが、それ以外では責任はないというのが普通の考えでしょう。しかしそれは法律上のことであり、道義上、あるいはもっと広く人情として、われらの責任感というものはかなりの範囲に及ぶのではないかと思われます。

むかし韓国に旅行したときこんなことがありました。新羅の古都・慶州の名刹、仏国寺を訪ねた折、ガイドの韓国人女性がわれら日本人観光客にこんなふうに問いかけてきました、「このお寺には石造建築物しか残っていませんが、どうしてだと思いますか」と。そしてキョトンとしているわれらに「それはお国の豊臣秀吉がわが国を侵略したとき火をかけたからです」とみずから答えたのです。彼女の様子からわれらを困らせようとしているのではないことは分かりましたが、でも少なくともぼくはそれを恥ずかしく思い、そのことに責任を感じました。日本人のしたこととは言え、もう400年以上前のことですから、そんなことに何で自分が責任を感じるのかと思いながら、でも現に感じたのです。

これはやはり「つながりの感覚」としか考えられません。つながりに濃淡はあっても、そこにつながりがある以上、自分とは関係ないと切り捨てることができないのです。もうひとつの例を上げますと、ときどきテレビにアフリカの飢餓線上にある子どもの映像が流れることがあります。手足が極端に細く、眼だけが異様に大きく見開かれた姿を見ますと、「かわいそうに」と思うとともに、そのことに責任を感じさせられます。自分は何不自由なく暮らしているのに、世界にはこんなに苦しんでいる子がいることに何か居心地が悪くなり、そこに自分の責任を感じてしまう。何で責任を感じなければならないんだと思いながら、でも感じざるをえないのです。何がしかの義捐金を送るという行動はそんなところから起こるのでしょう。


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「わたしの願い」と「ほとけの願い」 [「親鸞とともに」その72]

(4)「わたしの願い」と「ほとけの願い」

「わたしのいのち」はそれぞれ別の戸籍を持ちますが、その本籍はみな「ほとけのいのち」であるとしますと、「わたしの願い」と「ほとけの願い」はどのような関係になるでしょう。「わたしの願い」は人それぞれであっても、その奥底ではみな「ほとけの願い」を持っているということにならないでしょうか。「その奥底では」と言いましたが、これを「深層意識では」と言い直すこともできます。すなわちわれらはその表層の意識において、それぞれ別々の「わたしの願い」をもって生きていますが、その意識の深層には「ほとけの願い」が潜んでいるということです。

さてしかし、「わたしの願い」はそれぞれ別であるだけでなく、しばしば自他の願いが衝突します。場合によっては、けしからん願いをもつこともあります、「あいつがいなくなればどれほどすっきりするだろう」などと。釈迦のことばとされるものにこんなのがあります、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかしすでに自己が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『法句経』)と。あるいは『無量寿経』にはこんなことばがあります、「田あれば田に憂へ、宅あれば宅に憂ふ。牛馬六畜・奴婢・銭財・衣食(えじき)・什物(家財道具)、またともにこれを憂ふ」と。どちらも同じように、われらは「わがもの」についてさまざまに勝手な願いをもち、それがためにいろいろと悩み苦しむと言われています。

これが「わたしの願い」の実際の姿であるとしますと、その深層に「ほとけの願い」が潜んでいるなどということはありうるのでしょうか。そこでもう一度「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の関係に立ち返りますと、「わたしのいのち」はそれぞれがバラバラに存在しているのではなく、縦横無尽につながりあい、そのつながりの総体が「ほとけのいのち」でした(3)。そうしますと、個々の「わたしのいのち」は他の「わたしいのち」のことについて、自分には関係ないことと切り離すことができません。


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「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」 [「親鸞とともに」その71]

(3)「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」

さてむこうから聞こえてくるこの如来の「こえ」というのが「ほとけの願い」に他なりませんが、それとわれらの個々の願いとはどのような関係にあるでしょうか。

「ほとけの願い」と「わたしの願い」の関係を考えるために「ほとけのいのち」と「わたしのいのち」の関係を明らかにしなければなりません。「ほとけのいのち」と言いますと、個々の「わたしのいのち」とは別に、どこかに何か「大いなるいのち」があるように受け取られるかもしれませんが、それはキリスト教など一神教のイメージで、浄土教において「ほとけのいのち」(「無量のいのち」のことで、それを「阿弥陀仏(アミターユス)」とよびます)と言うときは、個々の「わたしのいのち」の総和を意味します。総和と言いましても、すべての「わたしのいのち」を容れる容器のようなものではなく、あらゆる「わたしのいのち」のつながりの総体のことです。

「わたしのいのち」たちは個々バラバラに存在しているのではなく、それぞれが互いにつながりあい、そのつながりによってはじめてそれぞれの「わたしのいのち」が成り立っています。たとえば人間の身体は数多くの器官が複雑につながりあい、そのつながりによって身体としてのはたらきをしているとともに、それぞれの器官もまた、他の器官とつながることにより、その機能を発揮することができます。もし一つの器官が他の器官とのつながりを絶たれ、身体から取り出されますと、身体全体に影響が及ぶとともに、その器官自体がもはやその機能を停止してしまいます。

そのように「ほとけのいのち」とはあらゆる「わたしのいのち」の無尽のつながりに他ならず、個々の「わたしのいのち」はそのつながりによって生かされているのです。そして「わたしのいのち」はあるとき生まれ、またいつの日か死んでいきますが、それもまたすべて「ほとけのいのち」のなかのことです。すなわち「わたしのいのち」の生まれ故郷は「ほとけのいのち」であり、そしてまたいずれ「ほとけのいのち」のなかに帰っていくということです。

「わたしのいのち」はそれぞれの戸籍をもっていますが、その本籍はみな「ほとけのいのち」です。


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「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」 [「親鸞とともに」その70]

(2)「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」

すでに本願念仏の教えのなかにいる人には「はじめに願いありき」ということに説明の必要はありませんが、そうではない人は「本願って何だよ、そんなのはただの物語でしょ」と言われることでしょう。確かに法蔵菩薩が誓願をたてたというのは物語ですが、「はじめに願いありき」ということ自体は紛れもない事実です。ただこの事実は客観的にどこかにあるものではなく、一人ひとりがみずからそれに気づいてはじめてあらわれます。みずから気づくと言いますのは、ある「こえ」が聞こえてくるということで、『歎異抄』の第2章にその具体的な姿が示されています。

本願を信じるとはどういうことかについてまだ確信を持てない弟子たちが関東から京の親鸞をはるばる訪ねてくるのですが、親鸞が彼らに与えたことばは「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」という一見そっけないものでした。しかしこのことばは「本願とは何か」という問いに対するこれ以上はないと言えるような答えであると言わなければなりません。すなわち親鸞の耳に直接聞こえてきたのは「よきひと」法然聖人の「念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」という声ですが、しかし親鸞はこの声を通して、どこかからやってくる如来の「こえ」を聞いているのです、「念仏してわれにたすけられまゐらすべし」と。

もし親鸞がただ法然の仰せを聞いているだけでしたら、このあとに「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」という途方もないことばがくることが理解できません。法然の声を通して如来の「こえ」が確かに届いたからこそ、そしてそれが身に沁みたからこそ、「念仏して地獄におちたりとも云々」という驚くべきことばが親鸞の口をついて出たのです。この如来の「こえ」が聞こえることによって救いが得られるのではありません、それが聞こえたこと自体が救いであり、それさえあればもうほかに何もいらないと思えるものです。


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はじめに(7) [「親鸞とともに」その69]

第7回 願うということ

(1)はじめに

われらは日々さまざまなことを願っています。ぼくはいま周期的に襲ってくる原因不明のアレルギー性湿疹に悩まされ、この不快な症状が早く引いてくれないかと願っていますが、そのように人それぞれ切実な願いをもって生きています。生きるとは願うことだと言うこともできるでしょう。で、これから考えてみたいと思いますのは、浄土の教えの原点である本願(本の願い)と、われらの願いとはどのような関係にあるのかということです。「ほとけの願い」と「わたしの願い」は本質的に同じものなのか、それともまったく違うものなのかと。

まず「ほとけの願い」すなわち本願とは何かを確認しておきましょう。『無量寿経』によりますと、むかし、気の遠くなるほどむかしに、法蔵菩薩が世自在王仏のもとで修行するなかで一切の衆生が安らかに生きられる浄土を建立しようという大願をたてられました。それが四十八願で、その中心となるのが第十八願です。それは「十方の衆生、至心信楽してわが国に生ぜんと欲(おも)ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」というもので、十方世界の一切の衆生が、わたしを心から信じ、わたしの浄土に生まれたいと願って十回でも念仏するようになり、そうして往生できるようにしたい。そうでなければわたしは仏になるまいという誓願です。

この誓願が成就して法蔵菩薩は阿弥陀仏となられたことから、これを「本の願い」という意味で本願(プールヴァ・プラニダーナ)と呼ぶのですが、それをこの世界の「はじめの願い」と受け取ることができます。キリスト教では「はじめにことばありき」(「ヨハネ福音書」)と言われますが、浄土教では「はじめに願いありき」で、この世のはじめからあらゆるいのちに大いなる願いがかけられているということになります。その願いをひと言でいいますと、「いのち、みな生きらるべし」(これはリルケの詩の一節です)、あるいは「なんぢ一心正念にしてただちに来れ、われなんぢを護らん」(これは善導の「二河白道の譬え」にある弥陀招喚の「こえ」です)と言い表すことができます。


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無尽のつながりのなかで [「親鸞とともに」その68]

(11)無尽のつながりのなかで

同時因果とは、因と果を横一列につなげますから、因と果は入れ替わることができます。父母という因とぼくという果の関係は、ぼくという因と父母という果の関係でもあります。父母がいてぼくがいますが、同時に、ぼくがいてぼくの父母がいます(ぼくがいなければぼくの父母はいません)。そして父母とぼくの因果のつながりはそれだけで孤立しているのではなく、無尽のつながりのなかの一つにすぎません。同時因果のつながりは網の目のように広がり、あらゆるいのちがひとつの大きな網として無尽につながりあっているのです。この構図のなかでは、父母とぼくのつながりは「たまたま」のものであり、先ほど言いましたように、ぼくが日本人ではなく中国人として生まれたとしても、つながりの総体として何の支障もありません。

さて、ぼくが日本人として生まれたのは「そうなるべくしてなった」ことと見るときと、ぼくが日本人であるのは「たまたま」のことであると見るときで、どんな違いが出てくるかを考えておきましょう。日本人であることに必然性を見るときは、そのことに縛られているように感じられ、何ごとも日本人であることをもとに考えなければならないような閉塞感がないでしょうか。それに対して日本人であることは偶然であり、ひょっとしたら中国人であったかもしれないと思いますと、もう日本人であることに囚われなくなります。日本人という枠から解放され、広いつながりのなかでのびのびと生きることができるのではないでしょうか。そして相手が何人であるかにかかわらず、ひとつにつながっている喜びを感じることができるのではないでしょうか。

かくして劣等感=優越感の問題に帰ってくることができます。われらがどんな境遇に置かれようと、それはわれらを生かしてくれている無尽のつながりのなかで「たまたま」そうなったと思うことができれば、その境遇がどんなに惨めなものであろうと、それに劣等感を懐くこともなく、その境遇がどれほどすばらしいものであろうと、それに優越感をもつこともありません。

(第6回 完)


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「たまたま」日本人に [「親鸞とともに」その67]

(10)「たまたま」日本人に

話を具体化しましょう。ぼくは日本人として生まれましたが、これは「そうなるべくしてなった」のでしょうか、それとも「たまたま」のことでしょうか。

ぼくが日本人の両親から生まれたということで言えば、ぼくが日本人であるのは必然ですが、さてしかし、ぼくの両親が日本人であることは必然でしょうか。ここで意見が分かれるでしょう。日本人の父Aと日本人の母Bが巡り合ったことでぼくが生まれたのですから、ぼくが日本人の両親から生まれたのは必然であると言うことができます。さらに日本人の父Aと日本人の母Bが廻りあうこともまたその因があり、必然です。かくしてこの必然的な因果の系列のなかで、ぼくが日本人として生まれたのは「そうなるべくしてなった」と言わなければなりません。

さて反論です。ぼくは確かに日本人の父Aと日本人の母Bの間から生まれましたが、しかしこの両親から生まれたこと自体は必ずしもそうでなければならない理由はありません。ぼくでなくて別の誰かが生まれても一向に差し支えはなく、またぼくは中国人の父Cと中国人の母Dから生まれたとしても何もおかしくありません。かくしてぼくの両親が日本人であることは「たまたま」であり、したがってぼくが日本人であることも「たまたま」のことです。

このように一方では、ぼくが日本人であるのは必然であると言えますし、しかし他方では、ぼくは「たまたま」日本人だとも言えますが、この違いはどこからくるのでしょう。ぼくが父母から生まれたという因果を「異時因果」と見るか「同時因果」と見るかということに行きつきます。父母という因とぼくという果を「異時」と見るか「同時」と見るかということですが、前者は父母が原因となって、ぼくという結果が生まれたと見ることで、因と果を時間的に前後に配列します。これは当たり前のことで何の説明も要りませんが、さて父母という因とぼくという果が同時であるとはどういうことでしょう。


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宿業論 [「親鸞とともに」その66]

(9)宿業論

従因向果と従果向因ということばがあります。「因から果に向かう」のと、「果から因に向かう」ということで、前者は菩薩が修行して(因)さとり(果)に向かうこと、後者はさとりをひらいて(果)衆生教化(因)に向かうことを意味し、いわゆる往相と還相のことです。このことばを元の意味から離れていまの問題に借用しますと、宿命論は従因向果で、宿業論は従果向因と言えます。宿命論は因からスタートして、それが果を一義的に決定しているとし、したがって何ごとも必然であると見ます。それに対して宿業論は果からスタートして、その果が起こったのは「たまたま」ある因があったからであり、したがって偶然であると見るのです。

どちらも因と果のつながりを前提としながら、宿命論はある因がこの果を一義的に決定していて必然と見るのに対して、宿業論の方は、この果は「たまたま」ある因から起こったのだから偶然と見るというコントラストがあります。宿命論は、ある因がこの果を生みだしたのだから、この果が起こるのは必然であると感じるのですが、宿業論は、ある因によりこの果が起こったが、しかしかならずしもこのつながりではなく、別のつながりでもいいのに、どういうわけかこのつながりになったということから、この果は「たまたま」だという印象が生まれるのです。

Aという因からBという果が生まれたとき、宿命論はAという因自体を必然と見ることから、Bという果も必然と映るのですが、宿業論では、かならずしもAという因ではなく別の因でもよかったのに、どういうわけかAという因からBという果が生まれたと見て、そこからBという果は偶然であると感じられるのです。宿命論がAという因自体を必然と見るのは、その因もまたもう一つ前の因によって規定されているからで、そのようにもう動かしがたい因果の系列ですべてが決定されているとします。しかし宿業論は、Bという果がAという因から生まれてきたのは必然でも、Aが因となること自体には必然性はなく「たまたま」のことであり、したがってBという果も「たまたま」であるとするのです。


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