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内と外 [「親鸞とともに」その104]

(7)内と外

如来はわれらの外にいますが、同時に、如来はわれらの内にいるということをイメージとして考えてきましたが、そのことは浄土の教えの中でどのように説かれているかを見ておきましょう。

如来はわれらを外から摂取してくれる存在であることは、浄土の教えのど真ん中にあります。たとえば『観無量寿経』にこうあります、「(如来の)光明はあまねく十方の世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てず」と。これは「アミターバ(無量のひかり)」としての如来のイメージですが、われらはそのひかりの中に摂取不捨されることが、如来による救いのイメージとして大事にされてきました。このイメージでは如来はわれらの外にあってわれらを包み込んでいます。

では如来はわれらの内にいるとはどういうことかといいますと、『無量寿経』にこうあります、「その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん」と。

これは前章において取り上げました第十八願成就文の一節で、「その名号を聞きて」といいますのは、第十七願に十方の諸仏が阿弥陀仏の本願をたたえて、その名号「南無阿弥陀仏」を称えると言われているのですが、その名号の「こえ」が聞こえて、という意味です。そして「信心歓喜せんこと乃至一念せん」とは、その「こえ」がわれらの心に沁みて喜びをもたらし、それがわれらの信心となるということです。「乃至一念せん」はわれらが念仏を一念すると理解されてきましたが(行の一念)、親鸞はこれをわれらのなかに一念の信心が生まれるととらえます(信の一念)。

つまり弥陀の本願が名号となってわれらに届けられ、それがわれらの信心となるということで、かくして如来(如来は本願を人格として表したものに他なりません)は信心としてわれらの内にあることになります。こんなふうに、如来はわれらを外から包みこんでくれるとともに、われらの内にあってわれらを支えてくれるのです。


タグ:親鸞を読む
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