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自力と他力 [親鸞の手紙を読む(その17)]

(3)自力と他力

 また善鸞義絶状にはこうあります、「第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて、人ごとに、みなすてまいらせたりときこゆること(あなたが第十八願をしぼんだ花にたとえて、それを聞いた人たちはみな本願を捨ててしまわれたそうですが)」と。これだけでも善鸞がとんでもないことを説いていたことが伝わってきますが、これを父・親鸞から直々に教えられたと言われた関東の弟子たちはどんなに驚いたことでしょう。弟子たちはとうぜん京の親鸞にむけて質問の手紙をしたためたことでしょう。いや、手紙ではあきたらず京まで上って直にほんとうのところを確かめようとしたに違いありません。『歎異抄』第2章の冒頭に「をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし」とあるのは、そのような人たちのことでしょう。
 そうした背景を頭に入れてこの手紙を読めば、親鸞が浄土の教えの根本を諄々と説いていることがよく理解できます。これまで一貫して述べてきたことを改めて確認し、おかしな教えに振り回されないよう念を押しているような気配が感じられます。まず言われるのが自力と他力の対比です。自力とは「余の仏号を称念し、余の善根を修行して、わがみをたのみ、わがはからひのこゝろをもて、身口意のみだれごゝろをつくろい、めでたうしなして浄土へ往生せむとおもふ」ことであり、そして他力とは「弥陀如来の御ちかひの中に、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽する」ことであるとした上で、往生は自力でできるものではなく、ただ弥陀の本願という他力によってはじめて往生できるのだと説きます。
 この自力と他力の対比は第19願と第18願の違いを浮き上がらせる狙いがあるように感じられます。他力を言うにあたってただ本願と言わず特に「第十八の念仏往生の本願」と言っていますし、この手紙の先の方に第19願のことが言及されていますことから、そのように感じられるのです。また義絶状にあった「(善鸞が)第十八の本願をば、しぼめるはなにたとえて」という文言もそんな思いを強めさせます。善鸞が第18願を「しぼめるはな」に譬えたということは、第19願の立場から教えを説いていたのではないかと推測させるのです。

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